秋立ちぬ:成瀬巳喜男の世界

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成瀬巳喜男の1960年の映画「秋立ちぬ」は、成瀬にはめずらしく子どもを描いた作品である。それも小さな子どもたちの幼い恋を描く。幼い二人が、互いに相手だけが心の支えであるのに、思い寄らず引きはなされてしまう。そのあたりは「禁じられた遊び」の小さな二人を想起させるが、この映画のなかの小さな二人は、「禁じられた遊び」をする二人ほどドラマチックには描かれていないし、また、相手の姿を求めて叫んだりもしない。だが、その二人が受けた心の傷は、海よりも深いと思わせるところがある。

じっさいこの映画では、海が繰り返し言及される。その海は晴海の海によって代表されているが、晴海の海は黄色く濁っていて、しかも悪臭がする。ちょうど公害が全盛期を迎えていて、この時代の日本の自然は深く傷ついていたのだ。その傷ついた自然よりさらに深い傷をこの映画の中の小さな二人は負うわけである。

母親とともに東京へ出てきて、親戚の八百屋に預けられた男の子と、近所の旅館の女の子との出会いと別れがテーマである。小学校六年生の男の子は、新しい境遇になかなかなじめない。外で住み込みで働いている母親とは離れ離れになるし、近所の子どもたちとは打ち解けない。一方、旅館の女の子は、小学校四年だが、どういうわけか八百屋の男の子に興味をいだく。彼女の母親は妾の境遇で、旦那から店を持たせてもらっている。その旦那が金に困って店を売りに出すことで、小さな女の子は家を移らねばならなくなる。それはこの小さな恋人たちを引きはなす原因となるのだ。

映画は、その小さな恋人たちのほほえましい触れ合いを淡々と描く。その間に、少年の母親(乙羽信子)が男を作って駆け落ちするという事件が起きる。男の子は、自分は母親に捨てられたと自覚する。もうそれくらいの分別はついているのだ。一方女の子のほうは、まだ分別らしいものはもっていないが、大人の言うことを繰り返すほどのことはできる。その大人のまねをして女の子は言うのだ。「あんたのお母ちゃんひどいわね、中年の女は男に狂うと子どもを忘れるというわ」と。じっさい少年の母親は、男に狂った挙句、熱海にまで流れていき、子どもをほったらかしにするのである。

その少年は、少女と一緒に海を見に行ったり、デパートで遊んだりする。その際に少女が昆虫標本を買おうとするので、少年は自分の飼っているカブトムシを融通してやろうと約束する。ところがそのカブトムシがいなくなってしまったので、少年は八百屋の息子にねだって昆虫採集に連れて行ってもらったりする。なんとかして少女のためにカブトムシを採りたいのだ。

昆虫採集の成果はなかったが、田舎から送ってきたりんごの箱の中にカブトムシが入っていた。それを少女に届けようと思って、少年は走って少女の家に向かうのだが、家はまさに引っ越し作業の最中だった。ひとりぼっちで残された少年は、少女と遊んだデパートの屋上で、少女の面影をしのびながら途方に暮れるのである。

こういうわけで、実に泣かせる映画である。少年が一人とりのこされた親戚の家の人々が、悪人ではないのが唯一の救いになっている。とくに夏木陽介演じる青年は、少年に対して一人前の人間として接してくれる。そこが少年にとっては救いだ。





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