フロイトのエディプス・コンプレックス論

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フロイトのエディプス・コンプレックス論は、無意識の措定と並んで、フロイト理論の中核を占めるものだ。もっとも無意識と同列の概念というわけではなく、その下位概念というべきものである。フロイトは人間の生への衝動をリビドーと名付け、それが普段は意識に上らない無意識なものとだしたのだったが、そのリビドーが人間の成長のもっとも早い時期に結実したものがエディプス・コンプレックスだと考えた。そういう位置づけからして、エディプス・コンプレックスは、人間の根源的な衝動と、その衝動が収められている無意識の双方にかかわる。そういう意味では、もっともフロイトらしい特徴を感じさせる。フロイトを論じるもののほとんどが、エディプス・コンプレックスを議論の中核に据える所以である。

エディプス・コンプレックスは、人間のもっとも根源的な衝動である性愛にかかわるものだ。その性欲が両親に向けられことからエディプス・コンプレックスが形成される。幼児にとっては両親こそが、世界で初めて出会う他者なので、両親は幼児にとってはあらゆる意味で自分の力で働きかける最初の対象である。その最初の対象に向かって、根源的な衝動である性愛が向けられることをきっかけにしてエディプス・コンプレックスが形成される、とフロイトは考えるのである。無意識の措定はともかく、かれの性愛についての議論には、うさん臭さを感じ取る者も多い。人間に性愛への傾向があるのは誰もが認めざるをえないが、そうかといって、人間形成やその行動の動機のほとんどすべてを性愛の視点から説明するのはやりすぎではないか、という疑問を抱かざるをえないところは、たしかにある。

フロイト自身は、無意識については、これは夢や神経症を研究する過程で発見したものであり、そういう点では、議論を成り立たせるための操作的な概念という位置づけだった。操作的な概念というのは、眼前の事象を矛盾なく説明できるような概念のことだ。無意識という概念にはそういう便利さがある。それは事象を矛盾なく説明できるばかりか、具体的な治療にも効果を発揮する。操作概念の存在意義は、単に事象を矛盾なく説明するばかりでなく、一定の因果関係をもとに、未来を予言できることである。治療の現場においては、治療とは未来に影響を及ぼすことであるから、治療に役立つということは、無意識という概念が操作概念として有効だということを意味する。

それに対してエディプス・コンプレックスの概念には、かならずしも操作概念としての有効性が認められるわけではない。たとえば、極端な性的潔癖性がエディプス・コンプレックスの現れだと診断された場合、だからといって、性的潔癖性を具体的にこのようにして治療しよう、ということにはならない。だいたいエディプス・コンプレックスのあらわれとしては、そうした事象が多いのであって、深刻な精神病理に結びつくことはあまりない。したがってエディプス・コンプレックスの働きは、病気の原因というよりは、ある種の性格の偏りだといって差支えない。じっさい幼児期のエディプス・コンプレックスはほとんどの場合、早い時期に消滅してしまうのであって、生涯にわたって個人に深刻な影響を及ぼすことはない。にもかかわらずフロイトがエディプス・コンプレックスに強いこだわりを見せたのは、自分自身の体験が背景にあるのかもしれない。それがなにかを指摘することはできないが。

エディプス・コンプレックスが形成されるプロセスについては、フロイト自身が多くの論文で言及しており、広く知られていることなので、ここでは詳しく触れない。一方、それが消滅するプロセスのほうは、あまりよく知られていない。フロイトが1924年に書いた「エディプス・コンプレックスの消滅」という小論は、その消滅のプロセスについて簡単に触れたものだが、簡単すぎてよくわからないところも多い。

こ小論の趣旨は、エディプス・コンプレックスは去勢威嚇のために没落するというものである。エディプス。コンプレックスは、フロイトのいう陰茎体制の時期と結びついているので、陰茎への強いこだわりを伴っている。そのこだわりは、自慰など陰茎への刺激となってあらわれる。それを大人、特に女性の母親が牽制する。そんなことをしたら、お父さんにそれを切られてしまいますよ、といって小さな男の子を脅すのである。脅された男の子は、去勢への強い脅威を感じる。そのことで自分自身のエデゥィス・コンプレックスを抑圧する。この抑圧は大抵の場合成功し、性愛の衝動は非性的な感情によって代償される。その後には、その抑圧が超自我を形成し、その超自我が自我をコントロールするようになるというのが、フロイトの基本的な構図である。

この構図はしかし、女の子にはそのままにはあてはまらない。だがフロイトは、エディプス・コンプレックスの普遍性にこだわるあまり、女の子にもそれを当てはめようとする。たとえば、陰核を陰茎のかわりにして、自分は罰を受けたために陰茎を失ってこんな小さな陰核しか残らなかったのだと思い込むといった具合だ。だが、これはこじつけというべきだろう。エディプス・コンプレックスを女の子に当てはめるのがこじつけだとしたら、男の子の場合にもその恐れがあるのではないか。というのも、男も女も同じく人間であり、人間としては同じ原理にしたがうはずだからだ。その原理が男の子にかぎり当てはまり、女の子に当てはまらないというのは、理論にどこか欠陥があるからではないか。

フロイトは次のように言っているのである。「私は、ここに記述されたエディプスコンプレックス・性的威嚇(去勢の脅し)、超自我形成、潜在期への移行への侵入等の間に見られる時間的・因果的諸関係がきわめて一般的、普遍的なものであると信じて疑わない」(高橋義孝訳)と。その一連のプロセスのうち、去勢の脅しが男の子の場合にのみ当てはまり、女の子には当てはまらないとすれば、もはや普遍的とはいえないのではないか。

そんなわけで、エディプス・コンプレックスの仮説は、フロイトの理論の中核をなす割には、不安定な土台の上に立っているように見える。そこには、フロイトらしからぬ予断あるいは偏見のようなものが感じられる。フロイトには女性差別的なところがあり、女性を男の付属物のように考えているようなので、男に当てはまることは無条件で女にも当てはまるはずだと思ったのではないか。そしてその男を自分で代表させて、自分に当てはまることはほかの男にもあてはまり、その男に当てはまることは、女を含めたすべての人間に当てはまると早合点したのではないか。






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