独裁者を支える外国資本:マルケス「族長の秋」

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ラテン・アメリカ文学には、独裁者小説というジャンルがあって、ガルシア=マルケスの「族長の秋」はその代表作のひとつだ。ラテン・アメリカは、安定した統一政権がなかなか生まれず、地方軍閥が交互に権力を握るといった事態が長い間続いた。そうした軍閥をカウディージョと呼ぶ。ラテン・アメリカ諸国の近代史はカウディージョの興亡の歴史である。

「族長の秋」の主人公は単に大統領と呼ばれているが、大統領とは国家におけるかれの職名であり、実質はカウディージョが国家の権力をもった姿である。だから彼は、生身の個人としてではなく、ラテン・アメリカ的な権力のあり方を体現したものでしかない。たしかに彼の言動には人間臭い面もあるが、基本的には権力の論理に従って生きている。その論理とは、権力は権力を維持することを目的とするというものだ。その権力を小説の語り手は、「その充足がかえってこの世の終わりまで続く欲望を産みだす悪徳」(鼓直訳)だといっている。

タイトルにある「族長(Patriarca)」は、家父長的なイメージをまとった軍閥の長という意味であろう。国内に多数ある軍閥のもっとも強いものが国家の権力を握るわけであるが、それには、外国の力を借りることがある。というより、外国の力を利用できたものこそが、他の軍閥よりも優位な力を持つようになり、権力の座に就くことが可能になるのだ。この小説の主人公大統領閣下も、外国資本の力を借りてライバルたちとの競争に勝ったいうことになっている。

外国の介入は、資金の供与という形をとる。それは、借款の供与だったり、公債の引き受けだったり、いろいろな方法を通じてなされるが、要するに国家の権力者あるいは国家そのものを借金漬けにすることによって、その借金をカタに、さまざまな利権を要求するのだ。この小説の中には、色々な名前の大使たちが出てきて、本国の利益を代表して、大統領に利権の供与を求める。面白いことに、それらの大使たちの名前はすべて英語名である。ということは、アメリカ人だと言いたいわけであろう。

そのアメリカ人らしい大使たちが、大統領に向かって、借金の返済の見返りに無理な要求をしてくる。まず、ウォーレン大使は、「わが国の領海における自国船舶の無制限の漁労権を要求した」。ストライン大使は、「外債の利子と相殺のかたちで領海を譲りうけたいという、執拗な主張をもう一度聞いてもらいたい」と言った。トラックスラー大使は、大統領閣下のドミノ仲間だったが、ヨーロッパの外債を保証してくれることと引き換えに、「わが国の地下資源開発の半永久的権利」を要求した。ロックスベリー大使は、「支払いの滞っている外債の利子と引き換えに、海を申し受けたい」と主張した。フィッシャー大使は、「必要があれば何年でも駐留できる、海兵隊上陸を正当化しようとした」。ユーイング大使に至ってはついに、カリブ海を運び去ってしまった。そのため我が国は海を失ってしまったのである。

大統領閣下の前に多くの大使が現れるのは、大統領閣下の在任期間が非常に長かったためである。大統領はアメリカのみならず、ほかの国にも利権を与えた。「イギリスに対してキニーネとタバコの独占権を、ついでオランダに対してゴムとカカオの独占権を、ついでドイツに対して高地の鉄道と河川航行の利権を」といった具合である。アメリカに対しては、もっと気前よく与えている。そのうちの多くは、腹心のホセ・イグナシオ・サエンス・デ・ラ・パッラが独断でしたことだが、かれと大統領は一心同体だったので、何も不都合はなかったのである。

欧米の資本主義国家が、大規模投資を通じて弱小国を経済支配するというのは、近現代における世界的な傾向であって、ラテン・アメリカに固有の事柄ではないが、ラテン・アメリカはそれがもっとも極端な形をとったとは言えそうである。アメリカは、ラテン・アメリカを事実上私物化し、自分たちの意向に沿わない政権ができると、それを暴力的に転覆させることもいとわなかった。

こうした自国本位の露骨なやり方は伝染するものらしく、近年は中国がその真似をするようになった。中国のことは、この小説とは何の関係もないのだが、その振舞いがこの小説の中のアメリカの振舞いにあまりにも似ているので言及する次第である。近年、中国は一帯一路と称して、大規模投資を通じて、弱小国への経済的・政治的な影響力の強化を図っている。それをアメリカは強く批判しているのだが、かつて自分がやっていたことを、中国がやっているからといって、それを非難するいわれはないのではないか。

アメリカ資本による経済支配のやり方については、「百年の孤独」でも触れられていた。「百年の孤独」では、民間資本が直接現地に乗り込んできて現地人相手のビジネスを始めることになっていて、とりあえず国家は前景化していなかったが、しかし彼らが現地進出するための起爆剤となった鉄道の建設は、民間主導でできることではなく、そこにはかならず国家が介入している。その国家の介入が、この小説では、よりあからさまに描かれているわけである。国家が現地進出のための条件を整備し、そのうえで民間資本がビジネスを始める、というのが基本的なパターンである。それを近年、中国も真似ているというわけである。

ともあれ大統領閣下は、アメリカの貪欲さに舌をまくのだ。「おふくろよ、ベンディシオン・アルバラードよ、アメリカ人って奴は、ほんとに野蛮な連中だよ、海を取って食うことした考えない、どういうこった」とうそぶきながら。だが、いくらアメリカでもカリブ海を取って食うことは出来ないのではないか。それがこの小説の中では、アメリカは実際にカリブ海を持ち去ってしまったと書かれているのである。海もまた、陸地と同じように囲い込みができるばかりか、持ち運びさえできるというわけである。そんなことをするアメリカとは、大統領閣下のいうとおり、実に貪欲で野蛮な連中というほかはない。





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