マルクスによってマルクスを否定する:柄谷行人「マルクスその可能性の中心」

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柄谷行人は、マルクスのタームを用いて自己の社会理論を作りあげた。だから一応マルクス主義的な思想家といえるであろう。じっさい柄谷本人も、そのことを否定してはいない。しかし、マルクス主義という言葉が意味するものを、普通の人とは異なって捉えているということらしい。柄谷の比較的初期の著作「マルクスその可能性の中心」は、そうした柄谷固有のマルクスの捉え方を、はじめて積極的に披露してみせたものである。

柄谷は、マルクスの読み方にはいろいろあるといっている。わざわざ、マルクスとは全く没交渉なヴァレリーを持ちだしてきて、テクストはそれ自体の自律性をもっており、それを書いた作者とは別のものだという理屈から、マルクスのテクストも、マルクスの意図を無視して読むことができるし、またそうするべきだと言っている。つまり、自分はマルクスを、自分の都合のいいように読み、それをもとにして、自分の体系を作るのだと言いたいようである。

じっさい柄谷は、「"真のマルクス"などというものはありはしない」といい、読者の数に応じて、それと同じだけの別々なマルクスがあると言いたいようなのである。そんなわけで、この著作で柄谷が目指したのは、自分自身にとってのマルクスは、どういうマルクスなのかを、読者にむかって明らかにすることだったといえる。

柄谷のマルクス解釈は、資本主義社会を含めてすべての歴史上の社会の基本的な構造を、生産ではなく交換を通じて見なおすというものである。資本論を虚心に読めば、マルクスが生産とともに交換を論じていることは明白である。しかし、マルクスはあくまで生産を中心にして見ているのであり、交換を生産に付随したものと見ていたことは明らかである。またそういう解釈が穏当な解釈というものである。ところが柄谷はマルクスの社会構造論を、生産ではなく交換を中心にして解釈しなおす。なぜそうするのか、柄谷は立ち入った説明をしていない。こういう読み方もあるのだと言うのみである。

柄谷のそうした読み方は、マルクスの意図から大きくそれた読み方だといわざるをえない。柄谷は、マルクスのテクストを、マルクスの意図から離れて自由に読むべきだとまず断っているから、そうした読み方にも一理があるのかもしれないが、それがマルクスのもっとも勝れた、しかも社会理論として有効な読み方だと言われると、そうじゃないのではないか、と言いたくなるというものだ。

柄谷が、交換をベースにして壮大な社会理論を展開するのは、この著作を書いてからかなりたってからのことである。この著作のなかでは、自分の理論の枠組についての言及はない。だが、それを予感させるようなものは認められる。柄谷がこの著作の中で具体的に論じているテーマは、労働価値説への批判と貨幣の秘密についてであるが、そのどちらをも柄谷は、交換によって基礎付け直そうとする。資本論を普通に読めば、剰余価値は剰余労働から生まれ、その剰余労働は生産過程から生まれると読める。ところが柄谷は、剰余労働の別名である利潤は、生産過程からではなく、交換過程から生まれると主張する。マルクス自身は「資本論」の中で、剰余価値は交換過程(流通)からは生まれないと再三強調しているのであるから、柄谷の主張にはマルクスの言葉による根拠は認められない。同じようなことは貨幣についても指摘できる。マルクスが「資本論」の価値形態論の中で展開してみせたのは、貨幣は商品の一般的価値形態であるとともに、その価値は究極的には人間労働を内実にしたものだということである。柄谷はここでも、貨幣を人間労働の体現としての価値から切り離して、商品の相互の関係に解消してしまう。かくて柄谷のマルクス解釈の基本は、生産を捨象して、もっぱら交換を重視するということである。

しかし柄谷のこうした主張は、少なくともマルクスの忠実な解釈とは縁がないというべきだ。そのことを柄谷も多少は自覚しているのだろう。読者はマルクスを、かれの「意図に反して」読まねばならないと言っている。

柄谷が、マルクスのいう剰余価値を利潤と言い換えて、その利潤の源泉を生産過程における労働者の剰余労働に求めるのではなく、交換過程に求めた理由についての議論はかなり笑止なものである。柄谷は利潤の源泉を、空間的に離れた場所での取引にまず求めるのだが、その延長で、時間的に離れた取引からも利潤が得られるといっている。マルクスなら、資本家が労働力を価値通りに買ったうえで、それを働かせることで、労働力の価値を超えた剰余価値を生み出すというところを、柄谷は、資本家が労働力を価値通りに買ったうえで、それを自分の才覚で組み合わせて活用することで、労働者個人では生めないものを、集合的な労働力から生むことができると考える。それが利潤だ。つまり資本家が利潤を得るのは、かれの才覚に対する正当な報酬だというわけである。資本家が聞いたら泣いて喜ぶような説だ。

貨幣を柄谷は、ソシュールの構造主義的言語観と対比しながら説明しているが、それは貨幣をものの間の関係として捉える見方であり、要するに貨幣から価値という実体を追放して、抽象的な関係に解消するものである。そうした抽象的な見方は、人間の本質規定についての議論でも見られる。唯物論者であるマルクスは、人間はまず感性的な存在であり、いわゆる真実というものは、感性において与えられているものだと言ったのであるが、その感性という言葉を柄谷は「受苦」という言葉に言い換えることで、いつの間にか議論を観念的な遊びへと移行させる。「感性」も「受苦」もヨーロッパ言語では「パッション」という言葉で言い表されるから、読者はそれらに共通性を感じて、柄谷の言葉遊びに付き合わされることになる、というわけである。

このように柄谷は、どう見てもマルクスをかなり恣意的に読んでいるとしか思えない。柄谷は、「私にとって、マルクスを『読む』ことは、価値形態論において『まだ思惟されていないもの』を読むことなのだ」といっているが、それは、柄谷がマルクスを、マルクスが思惟したのとは違ったふうに読んでいるということを意味しているのだろう。

柄谷がマルクスをどう読もうが、それは柄谷の勝手であって、しかもそのことで、具体的な実害が出るわけでもない。せいぜい、柄谷が後に展開することになる壮大な社会理論が、かなり脆弱な地盤の上に成りたっていると思わせるくらいがせきの山であろう。だが柄谷は、そうした自分の主張を、あたかもマルクス自身が語った言葉で基礎づけようとしている。そこにどうも、不純な意図を感じざるをえない。柄谷の議論は、マルクスによってマルクスを否定しているように聞こえるのである。






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