柄谷行人「トランスクリティーク」:カントによってマルクスを基礎づける

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柄谷行人の著作「トランスクリティーク」は、柄谷の社会理論をはじめて体系的な形で展開したものだ。柄谷は、マルクスに依拠しながら自分の社会理論を組みたて、それを壮大な規模に発展させたわけだが、「世界史の構造」をその集大成とすれば、この「トランスクリティーク」は、方法論の基礎固めということになる。その方法論とは、マルクスを、カントを通じて読み直すというものだ。それゆえこの著作は、カントによってマルクスを基礎づけたものということができる。

ふつう、「資本論」は、ヘーゲルの弁証法的方法を経済分析に適用したものと言われている。柄谷は、そうした「常識」を覆して、自分独自に「資本論」を再解釈するわけだが、そのさいにカントの批判的な方法を導きの糸にする。「トランスクリティーク」の「クリティーク」は、カントの「クリティーク」を意味しているのである。それに「トランス」という言葉を重ねたわけは、柄谷なりにカントのクリティークを実践しようという意気込みの現れである。柄谷は、トランスという言葉に、「トランセンデンタール」とか「トランスポジショナル」といった意味をかぶせている。それについてややこしい説明をしているが、要するに「カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである」と言っている。だから副題として「カントとマルクス」という言葉を付したというのだが、そう言いながら、主要な意図が「カントからマルクスを読む」ことにあることは明らかである。

柄谷がカントに見るのは、その倫理的・道徳的な側面である。倫理とか道徳とかは、色々な見方があり、無論、経験論的あるいは功利主義的な見方もあるわけだが、カントの倫理的・道徳的な議論は、ある種の理想主義を掲げている。それは人間の自由を絶対的な前提とするものだ。自由をめぐる議論は当然、必然性についての議論を呼び、自由と必然性とは一対の、互いに切り離せない関係になるわけだが、それでも、どちらを重視するかの選択はありうる。ヘーゲルの弁証的な議論は必然性に重点をおいたものであり、カントの倫理的・道徳的議論は自由に重点をおいたものである。

「常識」的には、マルクスは、ヘーゲルの弁証法を受け継いだことを理由に、経済システムの発展過程を、必然性の実現過程として見るものだということになっている。マルクスが経済システムの発展を「自然史的過程」と呼んだのは、そういう意味であると考えられる。それに対して柄谷は、マルクスの議論を、人間の自由を中心にして読み直す。人間の自由を重視することは、歴史の発展過程に偶然性の要素を認めるものだ。柄谷は、一般に流通している「史的唯物論」を厳しく批判し、いわゆる上部構造は下部構造によって一方的に規定されているわけではなく、それ自体に自発的な要素を含んでいると考え、さらに、上部構造なるものも、一般に理解されているほど単純なものではないという。たとえば、国家は、史的唯物論によれば上部構造に位置づけられるが、柄谷は、そうではなく、経済システムを成立させるそもそもの基盤・土台だという。経済システムが下部構造として、その上に国家を成立させるのではなく、国家というものがまずあって、それが経済システムを成立させるというのが、柄谷の基本的な主張である。

ともあれ、柄谷は、「資本論」を、「常識」とは全く異なった視点から読みなおしており、その視点がカントの倫理的・道徳的な議論を踏まえたものであることは、明らかなように思われる。そうした読み方は当然、資本論の提起したさまざまな問題について、従来とは違った回答を迫ることにつながる。例えば、革命の可能性について。「常識」的には、マルクスは革命を、資本主義の矛盾が必然的に生み出すものだと考えていたことになっている。必然的に革命が起るのであれば、革命を起こす主体について、そんなに深刻に考える必要はなくなるし、したがってそこに自由意志とか偶然性が強く働くこともない。矛盾の激化が資本主義の持続を許さないある閾値を突破すれば、資本主義はおのずから崩壊すると考えられる。その場合、その崩壊を秩序あるものとし、新しい時代にふさわしいシステムを確立するために、人間の自由な意思が介在する余地はある。そんなふうに考えるのが、「常識」的な考えとされたのであるが、柄谷は、そういう常識に異議を唱えるのだ。

資本主義のシステムは強固な基盤に支えられており、生半可な衝撃によっては崩壊しない。それは、近年の歴史を見てもわかる。大恐慌とか世界大戦は、当然資本主義にも打撃を与えたわけだが、資本主義はそうした打撃を乗り越えて存続してきた。今後も同様だと柄谷は考える。資本主義は、「常識」が考えているような脆弱なものではない。ましてや、自然必然的に崩壊するものではない。柄谷は、資本主義の矛盾は恐慌をもたらすが、革命を生むことはない、とする宇野重蔵の考えを引用しながら、革命の必然性についての議論を嘲笑する。資本主義の崩壊をもたらすのは、資本主義に内在する崩壊への必然性ではなく、人間の自由意志なのだというのである。

そこで柄谷は、自由と必然性とに関する詳細な議論を展開するわけだが、要するに、資本主義にノーを突きつけ、革命を通じて新たな社会の確立をもたらすのは、人間の自由な意思に基づく決断だというわけである。その自由な意思に基づく人間の決断を、柄谷はカントの倫理的・道徳的な議論によって基礎づけようとする。革命とは、経済システムの必然性ではなく、人間の自由な意思にもとづく、倫理的・道徳的な問題なのだと柄谷はいうのである。

そういうわけで柄谷は、この著作を通じて、カントによってマルクスを基礎づけなおすという作業に取り組んだといえる。柄谷は、マルクスをカント主義者に仕立てることで、人間的でかつ理想的な、また倫理的で道徳的な社会の実現を目指したといえそうである。





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