ドライブ・マイ・カー:濱口竜介の映画

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濱口竜介の2021年の映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」の冒頭を飾る同名の作品を映画化したもの。物語の基本的な枠組みは維持しているが、かなり大胆な脚色が加えられており、村上の原作を読んでいなくとも、十分楽しめるように作られている。

村上の原作では、芝居の一俳優が、たまたま雇った自家用車の女性運転手とかわす会話の形で話が進んでいくのだが、その回想のなかで語られる出来事を、映画は時系列的に再構成してある。しかも、妻の恋人だった男の話は、原作では10年も前のこととして回想されるのだが、映画はそれを同時進行の出来事として語る。また、主人公の行動ぶりには、かなりな脚色が施されている。主人公がチェーホフの「伯父ワーニャ」の舞台の演出をしているということ、その舞台の俳優として、かつての妻の恋人が加わること、その恋人は原作では中年のさえない男だったが、映画では性的魅力に富んだ若者となっていることなど。そのほか、原作にはない細かい脚色がいたるところに加えられている。映画化にあたっては当然、原作者である村上の了解を得ているはずなので、村上はこうした大胆な脚色のことを納得していたと思われる。村上がこのような大胆な脚色になぜ同意したのか、よく分からない。原作は、短編小説とあって、ごく単純なストーリー展開になっており、そのままでは映画にはならない。そこで、映画化するにあたって、多少の贅肉がつけられるのは仕方ないと思ったのか。

映画は、妻の不倫の現場を主人公の家福が見ることを映すことから始まる。その妻がクモ膜下出血のため頓死する。原作では、妻は癌をわずらい、長い闘病生活の果てに死んだということになっているが、映画ではあっさりと死なせるのだ。

そして、妻の死後二年という時点に、映画本体のスタートラインが設定される。家福は、広島に赴き、そこで舞台の演出の準備に取り掛かる。家服は緑内障をわずらっており、視力に不安があるという理由で、プロデューサーから自家用車の運転手をつけられる。原作では、その女性運転手と家福との対話という形で話が進んでいくのだが、映画は、それを同時進行の出来事として展開するのである。

妻と恋人との関係を、家服はすぐにピンときて、その恋人から妻との関係を探り知ろうとする。強い理由はないのだが、妻がなぜ自分を愛していると言いながら、他の男と寝ていたのか、それを知りたかったのだ。なんといっても妻は、四人も男を作っていたというのだ。しかも自分とのセックスも楽しんでいた。男なら誰と寝てもよいと言わんばかりだ。セックスは生理的な処理の問題であって、愛とは全く関係がないというように。

このようにいうと、この映画がかなり享楽的であるかのように聞こえるが、原作のいかにも村上らしいのりみたいなものは感じさせない。逆に、非常にシリアスな雰囲気を感じさせる。そのシリアスさで、日本人の夫婦関係を描いているわけだ。そこが、海外の人たちには新鮮に映ったのではないか。この映画は、日本国内より、海外での評判のほうが高かったのだ。

なお、映画のラストシーンで、家服が女性運転手の故郷を訪ねる所が出てくる。その故郷は、小説と同じく上十二滝村ということになっている。それは架空の地名なのだが、それにはちょっとしたいきさつがあった。村上は雑誌初出のさいに、そこを中頓別町という実在の地名にした。ところがそこの住民から侮辱されたといって文句をいわれた。小説の中で、運転手がタバコの吸い殻をクルマからぽいと数てる場面があって、中頓別町の住民はみなそうしているのだろうと書いたところが、自分たち中頓別町を侮辱していると言われたのだった。村上はその文句を受け止めて、地名を訂正したということだ。映画も、そんな村上の意思を尊重して、上十二滝村にしている。

「ドライブ・マイ・カー」というタイトルには、自分の車を他人に運転させるというアイロニーが含まれている。






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