フロイトの文化論

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フロイトの文化論は、精神分析学の成果を踏まえている。精神分析学は個人の人格形成についてユニークな理論を展開したのだが、それとほぼパラレルな議論を共同体など人間集団についても適用した。「トーテムとタブー」はその一里塚といえる研究成果だった。そこでの議論は、個人の人格形成に決定的な役割を果たすエディプス・コンプレックスが人間の集団においても確認できるというものだった。個人がエディプ・スコンプレックスからの解放を通じて「良心」を確立していくのに対して、集団は「社会的な規範」を形成していく。それは宗教という形をとることもあるし、もっと世俗的な道徳・倫理という形をとることもある。

「文化の中の不安」は、フロイト最晩年の著作であって、一応かれの文化論の集大成といってよい。「トーテムとタブー」の成果が盛りこまれているほか、人間の個人と集団との関連が立ち入って論じられている。論点は多岐にわたり、一読してとりとめのない印象を与えないでもないが、注意深く読むと、フロイトのもっとも言いたいことが伝わってくる。それは、文化というものを、個人と集団の対立に基礎づけるという見方だ。個人は本来快楽原則によって動くものであり、したがって利己的で、他の個人とは対立しあう傾向を強くもっている。ところが個人が集まった集団というものは、そういう個人の利己的な傾向を放置していては成り立たない。そこで個人を集団に取り込むための工夫が必要になる。文化というものは、人間の集団を成り立たせるための工夫だというのがフロイトの基本的な見方である。

集団形成にとって不都合な個人の利己的な傾向をフロイトは衝動と名付ける。衝動の中で最も重要な役割を果たすのは性愛の衝動と攻撃の衝動である。性愛の衝動は、二人の男女の間の親密なことがらに属するものであって、集団の利害を度外視する。あるいは集団の利害と対立する。一方攻撃の衝動は、いうまでもなく、集団形成とは逆の方向に作用する。こうした衝動を放置していては、個人は互いが互いにとって狼のような存在と化し、集団形成は望めない。だから、集団形成の要請は、そうした個人の利己的な衝動を制御しなければならない。人間の文化とは、そうした要請にこたえた工夫なのである。

つまり、文化は個人を集団につなぎとめるための社会的装置なのである。そこで文化はどのようなメカニズムを通して個人を集団につなぎとめるか、ということが問題になるが、その前に人間はなぜ集団を形成したがるのか、とういうことが問題になる。そもそも人間に集団形成への動機がなければ、文化をめぐるさまざまな議論は意味を持たないからである。

人間の集団形成への動機について、フロイトは明確には語っていない。そうした傾向が本能としてビルトインされているといえば簡単だが、フロイトはそうは言わない。本能というと、聞こえはいいが、それでもって説明しようとするのは、何も説明しないと同じことだ。だから、本能という言葉をフロイトは慎重に避けるのだが、しかし、人間には集団への強い執着があると言っている。その執着は人間の本来的な傾向である愛の衝動に基いている。一方攻撃的な傾向は死の衝動に結びついており、この二つの衝動が対立しあいながら人間の性格形成を規定しているとフロイトは考えるわけだ。ところで愛の衝動というと、性愛を内容としており、したがって集団形成にはマイナスに働くと思われるのだが、フロイトはその愛の衝動こそが人間を互いに引き付けあい、集団形成に向かわせるのだと言っている。そういう場合の愛の衝動には、どうも二つの次元があるようである。二人の男女を強く結びつけるのも愛の衝動なら、集団形成に走らせるのも愛の衝動なのだ。この両者はだから、まったく同じものとは言えないようである。

ともあれ、人間は本来集団を形成する傾向があり、集団の中で自分の居場所を求め、集団に守られているといることに安心感を覚えるような存在だということを前提として認めれば、そこからさまざまな議論が、いわば自然発生的に湧き出てくる。その場合モデルとなるのは、個人の人格形成をはじめとする精神分析的な議論である。個人の人格形成は、人間が生まれながらに持っている原始的な衝動(リビドー)をコントロールすることを通じて行われる。そのコントロールに成功した個人は、良心を核心とする自我を確立し、失敗したものは神経症とか精神的な病気に陥る。それとパラレルに、集団の場合も、成員である個人の原始的な衝動をコントロールすることを通じて形成される。そのコントロールに成功した集団は、その集団独自の社会的な規範(宗教とか道徳・倫理など)を確立し、失敗した集団は集団としての体裁をなさず、分解するハメになる。もっとも現行の集団はすべて、集団として機能しているので、集団が分解したケースというのは、可視化されることがないのではあるが。

個人の人格形成にとって決定的なのはエディプス・コンプレックスの介在だった。それと同じことが集団についても見られるとフロイトは言う。その典型的なケースをフロイトは「トーテムとタブー」の中で解明してみせた。集団のエディプス・コンプレックスは、集団の幼児期における父親殺しに結実する。その結果集団の成員には深い後悔の念が生まれる。その後悔の念が核となって、集団としての掟がつくられていく。それが宗教とか文化といったものに昇華していくというのがフロイトの基本的な考えである。要するにフロイトは、個人とその集まりである集団を通じて、同じ原理を適用しているわけである。その原理とは、人間本来の衝動にもとづいて人間にかかわるあらゆる事象を説明しようとするものである。その衝動をフロイトはリビドー呼んでいるから、フロイトの人間論と文化論はリビドー一元論と言ってもよい。

そんなわけだから、個人において見られるものは、集団においても見られるはずだということになる。その一例としてフロイトは神経症を挙げている。個人の神経症はリビドーのコントロールに失敗した結果だったが、それと同じように、集団も神経症に陥ることがあるとフロイトは言っている。そうした神経症のことをフロイトは、「共同体の神経症」とか「社会的神経症」と呼び、あるいは「人類神経症」と呼んだりもしているが、それについての研究も当然なされなければならない、と考えていた。その研究をフロイトは「文化共同体の病理学」と呼んでいるのだが、そうした言葉を使って集団の神経症をことさらに強調することの背景には当時のヨーロッパ社会のとげとげしいムードが働いていたことは間違いない。第一次世界大戦自体が人類規模の神経症の現れだったといえなくもないし、大戦後のファナティックな雰囲気の蔓延も神経症の深刻な症状だといえなくもない。やがてそうした神経症の症状がナチスによってグロテスクな形で体現されていく。フロイトはユダヤ人として、そうしたヨーロッパ社会の動向に深刻な危機意識を感じていたものと受け取れるのである。





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