十地経を読むその四:第三光明であかるい菩薩の地

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菩薩の十地の第三は「光明であかるい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、如実なるままに思惟し、四種の禅定と無量心、物質の世界を超越した限りない禅定、また五種のもっともすぐれた神通力を体得している。それらをもって、菩薩としての資質を高め、衆生の救済に奮励努力するのである。

「如実なるままに思惟する」とは次のようなことである。「あらゆる衆生のまよいの存在(有為)がうつろいゆくこと(無常)を、あるがままに観察する。あらゆる衆生のまよいの存在が苦しみにみちていること(苦)、垢れていること(不浄)、安心しておれないこと(不安穏)、ついには崩壊すること(敗壊)、いつまでもそのままではないこと(不久住)、一瞬のうちの生じまた滅すること、すぎにしものはもはや生じず、未来のものもいまに来たらず、現在のものもここにとどまらないことをつぶさに観察する」。ごく単純化して言うと、ありのままの世界は、まよいに満ちていると観察することである。

禅定とは、心を統一して対象を観察・思惟し、真理を悟ることである。その対象には、物質界に属するものと、物質界を超越したものとがある。物質界にかかわる禅定が四種の禅定である。第一の禅定にあっては、論理によって思惟し(有覚)、さまざまな観点から思惟する(有観)。第二の禅定にあっては、論理による思惟もさまざまな観点からからの思惟もなくなる。第三の禅定にあっては、喜悦に対する愛情から自由になり、平静の感情があり、身体に安らぎを覚える。第四の禅定にあっては、やすらぎも苦悩もなくなり、安楽と憂愁の気分も止滅している。

物質界を超越した禅定とは次のようなことである。「あらゆる種類の物質があるとの観念(一切色想)を超越する。物質があるとの観念(有対想)がなくなり、種々であるとの観念(種々想)を思惟しない。それゆえに、空間が無限に広がっているという禅定の世界(空無辺処)にあって、正しい心構えで修行していく。空間は無間にひろがっていると思惟しつつ。かの菩薩は、あらゆるしかたで、空間が無限にひろがっているという禅定の世界を超越するとき、識が無限にひろがっているという禅定の世界(識無辺処)にあって、正しい心構えで修行していく。識が無限にひろがっていると思惟しつつ。かの菩薩は、あらゆるしかたで、識が無限にひろがっているという禅定の世界を超越するとき、いかなるものもないという禅定の世界(無所有処)にあって、正しい心構えで修行していく。いかなるものもないと思惟しつつ。かの菩薩は、あらゆるしかたで、いかなるものもないという禅定の世界を超越するとき、概念作用があるのでもなく、概念作用がないのでもないという禅定の世界(非想非非想処)にあって、正しい心構えで修行していく。概念作用があるのでもなく、概念作用がないのでもないと思惟しつつ」

以上のような禅定のとらえ方が、般若経の空の思想を踏まえたものであるのは、明らかに指摘できることである。

かくして禅定をくまなく成就したうえで、五種の神通力を体得する。五種の神通力とは次のようなものである。(1)大地を震動させる等々自由自在な身体能力、(2)人間の限界を超越した神的な聴力、(3)他の衆生、他の人間の心をば、そこにある心のはたらきとともに、あるがままに知る能力、(4)限りなく多様なる過去世の生活を想起する能力、(5)人間の限界を超越した視力によって衆生をありのままに知る能力。

禅定と神通力の行使によって、かの菩薩は「あらゆる存在は、そのときそのときにさまざまに条件付けられて生成し、存在するのである。したがって、一つの実体あるものとして移動したり、壊滅したりすることはない」という真理を体得する。そうすることで、あらゆる愛欲なる束縛(欲縛)、あらゆる物質的な束縛(色縛)、あらゆるまよいの存在なる束縛(有縛)、あらゆる無知なる束縛(無明縛)から離脱する。それゆえそのような菩薩の境地を「光明であかるい菩薩の地」というのである。

この地にある菩薩は、「もはやいささかもつみかさねられることなく、あやまった貪欲は捨て去られるにいたる。もはや、いささかもつみかさねられることなく、あやまった瞋恚は捨て去られるにいたる。もはや、いささかもつみかさねられることなく、あやまった無知は捨て去られるにいたる。そして、かの菩薩の善行を行う徳は、それだけますます光輝を増し、清浄になり、無礙自在になってくる」

この地にある菩薩は、インドラ神にたとえられる。インドラ神は、神々のいます三十三天に君臨する帝王(三十三天王)である。それは、「自由自在にはたらきをなして、衆生の愛欲と欲望を除去すべく、たくみな方便の行いを実現する。そして衆生を愛欲の泥沼から救い出す妙をきわめている。どんな行為にいそしむのであってもよい。布施をしたり、やさしい言葉を話したり、ひとびとのためになる善行をなしたり、あるいはひとびととひとしい行為をなしたり、というそれらすべては、仏の思惟をはなれることがない。法の思惟を、仏弟子たちの僧団の思惟を、菩薩の思惟を、菩薩行の思惟を、もっともすぐれた菩薩行の思惟を、さまざまな地の菩薩行の思惟を、仏の不思議な知力の思惟を、仏のゆるぎない説法力の思惟を、仏のたぐいない諸徳の思惟を、乃至あらゆる不思議力をそなえた、すべてを知る知者の知をはなれることがない」





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