十地経を読むその七:第六真理の知が現前する菩薩の地

| コメント(0)
菩薩の十地の第六は「真理の知が現前する菩薩の地」である。その真理の内実は十二因縁及び三界唯心という二つの言葉に集約される。十二因縁は仏教の基本思想であり、すべてのものには固有の実体はなく、ただ因果関係の連鎖に過ぎないと考える。また三界唯心とは、世界のすべての存在は心の生み出したものだとする考えで、これは華厳経の十地品(十地経)が積極的にうちだした思想である。

十二因縁の思想の根底には次のような考えがある。「あらゆる存在は空であり、もともとの本性からして静寂であり、一つ一つの個体がない。鳥の飛びゆく大空のごとくに、いつどこでも平等で、同一である。はからいがなく、浄らかである。運動も静止もなくなってしまい、さまざまな日常的諸範疇をも超越し、それ以外のあやまっているものもない。如実なるままに平等であり、如実にして存在の個性そのものであり、はからいがない。ところでもし、あらゆる存在が、そのようであることをさとりゆくなばら、このひとびとは、有にとらわれて心を動かすことも、無にとらわれて心を動かすことも、いっさいない」

だが実際には、ひとびとは有や無にとらわれて心を動かしている。それは煩悩にとらわれているからである。その煩悩の原因となるものが十二因縁なのである。十二因縁は、
普通の仏教用語(鳩摩羅什訳)では、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二の支分という形で表現される。これらは単に並列しているのではなく、たとえば無明から行が生じ、行から識が生じ、識から各色が生じるという具合に因果の連鎖をなしている。したがって、この因果の連鎖の最初のものを断ち切れば、全体がなくなるというふうになっている。因果の連鎖の最初にくるのは無明であるから、無明を断ち切れば全体がなくなるということになる。

無明は、この翻訳(荒巻訳)では「無知」と訳される。行は主体的行為と訳される。ほかの言葉もそれぞれ独特の訳され方をしている。それぞれについての、この訳本における定義は以下のようなものである。
(1)無知(無明)とは、根本の真理を知らないことである。
(2)主体的行為(行)とは、そのような無知があることにもとづいて、いつも善、あるいは悪、あるいは倫理的に無性格な業をなしており、その果報をうけていくことである。
(3)識とは、そのような主体的行為に条件づけられて生じてくる最初の心である。
(4)個体存在(名色)とは、そのような識と同時に生じるまよいの存在であるが、それは主体への執着をともなっていて、さしあたり四種、すなわち、感情、概念作用、主体的行為、識である。
(5)六種の知覚の場(六処)とは、そのような個体存在においてようやく成長してくる。
(6)接触(触)とは、そのような知覚能力が対象に接して、知覚する識がはたらくことである。
(7)感情(受)とは、そのような接触と同時に生じてくる。
(8)愛着(愛)とは、そのような感情にもとづいて好悪を判定するはたらきである。
(9)まよいの存在への執着(取)とは、そのような愛情によって増大する。
(10)業の果としてのまよいの存在(有)とは、過去のさまざまな業ののこしたまよいの潜勢力(有漏業)であり、そのようなまよいの存在への執着があるときに、次の果としてのまよいの存在をもたらすべく、現前してくるのである。
(11)生とは、そのような過去の業にしたがって、果として、まよいの存在が発現することである。
(12)老いとは、まよいの存在が成熟することである。死とは、老いたのちに、まよいの存在が崩壊することである。

この十二の煩悩の原因が最初のものから最後のものまで連続的につながっているというのが十二因縁の思想である。だからポイントは最初のものたる無明にある。その無明とは、根本の真理を知らないことであるが、その根本の真理とは、上に「あらゆる存在は空であり」以下に引用した部分で言い表されている。したがって、その真理を体得することが、まよいから自由になるための条件である。

これらすべてまよいの存在が、ただただ心のなかでのことだとするのが「三界唯心」という思想である。三界唯心とは、「三種のまよいの存在(三界所有)はすべて、ただただ心のみである(唯是一心」」を省略した言葉で、十二のまよいの存在がただ一つの心の中に存在しているという思想を表現する。世界はすべて心の生んだ産物なのだから、心のもちようによって迷いから脱却できるとするのである。これはいわゆる唯心論の思想であって、世界を心の産物とみる見方は、大乗仏教の大きな思想的潮流たる唯識派に影響を与えた。

ともあれ、根本の真理を知らない無明が働いているかぎり、まよいから脱却することはできない。そのことを頌は次のように歌っている。「根本の真理についての無知がはたらいて条件となっているかぎり、まよいの存在の構成要素も、つぎつぎに存在する。もし、根本条件やさまざまな条件が、すべて滅亡してしまうならば、それらもつぎつぎに絶ちきられる」

根本真理を体得することによって、無碍自在の知が現前する。そのような状態にある菩薩の境地を「真理の知が現前する菩薩の地」というのである。この境地にある菩薩は、善化自在天王となる。「自由自在にはたらきをなして、衆生ひとりひとりの慢心をおのずから休止させ、衆生がさまざまな慢心のはたらきを停止するように妙をきわめる」のである。





コメントする

アーカイブ