カントの永遠平和論

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カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

「将来戦争を起こすような材料を密かに留保してなされた平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない」(高坂正顕訳)という条文からこの論文は始まっている。この条文がバーゼル平和条約を意識していることは明らかだと思われる。バーゼル平和条約は、ドイツの領土の一部をフランスに譲渡する項目を含んでいたのだが、それは戦争の結果として強制的に押し付けられたのであり、したがって「将来戦争をおこすような材料」となる。そのような材料を留保した平和条約は、「決して平和条約とみなされてはならない」。カントはドイツ人であるが、ここではドイツ人としてではなく、人類の理性を代表する人間として語っていると受け止めるべきであろう。

この条文に続けてカントは、「平和とはあらゆる敵意の終末を意味し、それに対しては永遠なるという形容詞を付加することさえ冗語といえる」と書いている。しかし、国際社会において、国家間のあらゆる敵意を消滅させることなど可能なのだろうか。カントは、諸国家の併存という事態を前提としたうえで、それら諸国家が互いに敵意をなくし、永遠に平和な状態を実現することは不可能ではないし、また、実現すべきだと考える。そしてその実現のための諸条件を、この論文の中で考察して見せるのである。

カントは、国家の起源を人間同士の社会契約に見る点で、ホッブスの徒であるといえる。ホッブスは、人間がいかにして国家を形成するか、その道筋を理論的に説明したのだったが、カントは、国家を自然人と見立て、自然人が契約を通じて国家を形成するということのアナロジーとして、諸国家が契約を通じて国家連盟を形成するという筋書きを示した。自然人は、原始の状態では互いに戦争状態にある。それを契約によって国家を作ることによって、その国家を通じて互いの平和的な関係をつくる。それとアナロジカルに、諸国家は契約によって国家連盟を作り、その国家連盟を通じて互いに平和的な関係を作ることができると考えたのである。

国家が個人の利害を調整しながら平和な状態を維持するのとアナロジカルに、国家連盟は諸国家の利害を調整しながら平和な状態を維持する。その平和は永遠に続かなければならぬし、また続くことができる。そのためには必要な条件がいくつかあるが、その条件は実現不可能なものではない。そのように考える点でカントは、かなり楽天的である。

諸国家が融合して一つの大国家を形成するということにはカントは否定的である。その理由はいくつかあるが、決定的なのは、当時の国際情勢からして、国家を解体することが非現実的と思われたことがあげられよう。国家の解体を前提としては、進む話も進まない。だから、現存する国家を前提として、それらの間に平和な関係を樹立するには、諸国家の連盟しかないだろうというのがカントの考えである。

その諸国家の連盟をカントは、国際連盟と名付けた。20世紀前半に(一時的に)実現した国際連盟は、カントの国際連盟の理念を受け継いでいると言われる。現実の国際連盟も、カントの国際連盟の理念にしたがって恒久的な(あるいは永遠の)国際平和を目指した。結果的にはうまく機能せず、第二次大戦の勃発を防げなかったことは周知のことである。

それはともかく、カントの考えた国際連盟は、「すべての戦争を永遠に終結させんと」することを存在意義としていた。国家と個人との関係においては、国家の法律が個人の行動を律する役割を果たすのと同様に、諸国家の国際関係においては、国際法が諸国家の行動を律するべきである。個人が自分の自然権の一部を国家に委譲するように、諸国家もその主権の一部を国際連盟に委譲する。交戦権はそのもっとも重要なものである。諸国家は、交戦権を移譲し、戦争の権利を放棄する見返りに、国際連盟によって、国家としての安全を保障される、というのがカントの構想の骨格である。

そこで、国際法の理念が問題になる。なぜなら、すべての国家とすべての人間を納得させるためには、明確な理念が必要であり、その理念を諸国家と諸国民が共有していなければならない。でなければ、交際連盟は恣意的な意図によって、いわばその場かぎりの運営に堕すからである。では、その理念とはいかなる内容をもつものなのか。カントはここで、諸国家を個人に見立て、個人に通用する道徳が、そのまま諸国家にも通用されると考えた。国内法と同じような理念が、国際法にもそのまま適用されるというわけである。しかして、国内法・国際法を通じて共通の理念を体現したものが「世界公民法」である。それは、個人であると国家であるとをとわず、およそこの世界に存在している理性的な存在者が、必ず守らねばならない鉄則である。

その鉄則とは、ごく単純なテーゼに還元される。それはつまり、他者を手段としてではなく、目的として扱えというものである。カントの有名な道徳律だ。その道徳律を、個人レベルのみならず、国家レベル・国際レベルにまで応用するというのが、カントのカントらしいところである。そうしたカントの考えは、あまりにも理想主義的であって、現実に裏付けられた有効性に乏しいとする批判がある。その一方で、やはりカントのいうような理念がなければ、人間社会はニヒリズムに害されるほかないのであって、人間らしい社会を実現するためには、カントの考えは大きなヒントになるという見方もある。

カントの理想主義的考え方の対極にあるのは、功利主義的な考え方である。世界はむしろ功利主義的な考え方が動かしてきたといえる。資本主義とは、他者を手段として利用することの上になり立つのであり、したがってカントの言うような理想主義とは無縁である。だからといって、カントが全く無効だとまでは言えないのではないか。少なくとも、カントを人間性理解の大きな手掛かりにすることは必要だと思われる。カントを捨てて顧みないようでは、その社会には明るい未来はないといってよい。





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