八千頌般若経を読むその二:般若波羅蜜とはなにか

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八千頌般若経の主要な目的は、般若波羅蜜とはなにかを明かにすることである。般若とは智慧のことをいい、波羅蜜とは完成されたものという意味であるから、その合成語である般若波羅蜜は完成された智慧を意味する。その完成された智慧とはそもそもいかなるものかについて解明するのが、このお経の主な目的なのである。

この問題を論ずるきっかけは、世尊がスプーティに向かって般若波羅蜜の意義を明かにするよう命じたのに対して、般若波羅蜜の存在を知らない自分になぜその意義を明かにすることができましょうかとスプーティが反問したことである。それに対して釈迦は、それはお前が般若波羅蜜の「存在」にこだわっているからだという。般若波羅蜜は存在するというものでもなく、また存在しないというものでもない、そもそも存在というようなことを超越しているのだというのである。

その存在にこだわるのは心である。心が分別の作用をおこしてものごとの概念をたてる。しかしそれは心の産物であり、幻想のようなものにすぎない。ものごとそのものは、概念では捉えられない。概念としての存在は空虚である。

ここから、空の思想が展開される。空の思想の眼目は、あらゆる存在について、それ自体としての存在の在り方(自性という)を否定することである。これは、心の対象である物質界の存在を否定するのみならず、その対象を認識する心の存在をも否定する。物質界の存在の否定は空という言葉で表現され、心の存在の否定は非心(あるいは無心)という言葉で表現される。

物質界の存在の否定は、次のような言葉で表現される。「物質(色)に執着しないこと、これが、菩薩大士の般若はらみつであると知らるべきであります。同様に、感覚(受)・表象(想)・意思作用(行)、判断(識)に執着しないこと、これが般若はらみつであると知らるべきであります」

更に、物質には物質としての自己存在性(自性)がないこと、同様に、感覚・表象・意思作用・判断にもそれぞれとしての自己存在性がないということが強調される。それを空性と呼んでいる。これは般若心経における五蘊皆空の思想を先取りしたものである。存在が空だということは、無ということではなく、「一切の存在(法)は、生じないものであり、滅しないもの」であるということを意味する。これは、物質をそれ自体の存在性によってとらえるのではなく、因果関係の網の目としてとらえることを意味するが、このお経では、そのことに深く踏み込んではいない。空を因果関係の連鎖として説明するのは竜樹の中論においてである。

心の存在の否定は、非心という言葉で表現されるが、具体的には、心の作用である瞑想に関連付けて説かれる。瞑想は心の作用のように思われているが、それは存在としての心が存在としての瞑想を生むということではない。「わたしは瞑想している」というのは、根拠のない思い込みである。なぜかといえば、瞑想している人は、その瞑想を認識しないからである。かれは瞑想を認識しているのではなく、瞑想と一体化しているのである。彼が瞑想するのではなく、瞑想が彼と不離なのである。

物質界の存在性を信じている人は、「対象としての存在を、心で構想して、その構想した精神的存在と物質的存在(名色)とに執着するのである。彼らによって、存在しない一切の法が、存在すると構想されるのである」

以上を踏まえて、菩薩大士は、「一切処において、一切の自我は全く存在しない、それは得ることができないとの心をおこし、同様に、一切処において、一切の法は全く存在せず、不可得であるとの心をおこすべきであります」と言われる。

以上は第一章における教えの概要であるが、第二章では般若はらみつの無限性について、第三章では般若はらみつの功徳について説かれる。般若はらみつが無限であるのは、一切の存在が無辺だからである。無辺とは、辺際がなく、始原も中間も終末も把捉できないことを意味する。そうした無辺の存在を否定するのが般若波羅蜜であるから、それは無限なのである。

般若波羅蜜の功徳については、消極・積極両面から説かれる。消極的な意義としては、般若波羅蜜を体得したものは、いかなる悪魔の攻撃からも守られていることが説かれる。「いかなる諍論、論争、論破、論難が仕掛けられようとも、それらは般若はらみつの光の力により、威力により、般若はらみつの力に護持されることによって、すみやかに終息するであろう」。また、いかなる災難が身にふりかかろうとも、般若はらみつを受持しているものが、それによって死ぬことはないであろう。

積極的な意義としては、般若はらみつを受持することによって、さまざまな福徳が生ずることがあげられる。「善男子・善女人が、この般若はらみつを浄信しつつ、信奉しつつ、心を浄め・・・供養するとしましょう。この因縁よりして、この善男子・善女人は、ガンジス河の砂の数ほどの三千大千世界に住する一切衆生の仏塔建立よりも、より多くの福徳を生ずるのであります」

次に、六波羅蜜における般若波羅蜜の位置づけについて説かれる。「般若はらみつは一切智性に回向せられた善根なるが故に、残りの五はらみつより優れたものであり、導師であり、あまねき導師である。これと結合することによって、残りの五はらみつは、般若はらみつの中にふくまれるのである・・・般若はらみつに堅持せられて、五はらみつは成長するのである。五はらみつは、般若はらみつに摂持せられるが故に、はらみつという名称を得るのである」。ちなみに六波羅蜜とは、布施・持戒、忍辱・精進・禅定・般若の各波羅蜜をさす。





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