徳田秋声「仮装人物」を読む

| コメント(0)
長編小説「仮装人物」は徳田秋声晩年の代表作といわれる。内容的にはほぼ完全な私小説である。秋声は、五十四歳で(1926年)妻を失った直後、作家志望のある女から接近され、以後二年間その女と付き離れつし、痴情の限りを尽くした。老年の色ボケといってよいほど、その痴情には醜悪なところがあって、世間の嘲笑を買ったくらいだった。秋声は、その痴情を包み隠さずありのままに描いている。どういうつもりでそんなことをしたのか。第三者の眼にはさまざまに異なって見えるだろうが、小生のようなものには、痴情を売り物にする秋声の情けなさが目に付く。同じく痴情を描いた作家に谷崎潤一郎があるが、谷崎の場合には、痴情を突き放して見る視点がある。それに対して秋声は、自分自身の痴情に溺れている。

とにかく、少しも面白いところのない小説だ。まず、登場人物がみなせせこましい人間ばかりで、そのせせこましい人間たちが、自分のしていることの意味もわからずに、ただひたすら自我を張り合うといった眺めが展開される。自我を張り合うといっても、他人様に向かって張り合うような自我をそもそも持ち合わせていないような連中なのだ。それは、かれらだけのことではなく、その時代に生きていた日本人全体にも、多かれ少なかれ通じることで、日本人に自我を求めること自体が間違っていると言われそうなのであるが、それにしても、犬や猫じゃあるまいし、目先の快不快だけを目印に本能的な生き方をしているのがこの小説の登場人物なのだ。

モデルとなった作家志望の女は、小説の中では、梢葉子という名になっているが、山田順子という実在の女である。この女は作家志望で、秋声の妻が生きている間に、秋声に接近を試みたことがあったが、妻のはまが死ぬと、すかさず秋声に急接近して、たちまち色仕掛けで攻略に成功した。秋声は妻を失ったばかりで、心のどこかに穴があいていたのだろう。その穴を新しい女が首尾よくふさいでくれたということになっている。

その女に対する秋声の執拗ともいえる恋情がこの小説のテーマである。その恋情を駆り立てる女の手練手管がもう一つの読みどころになってはいるが、しかし女は小生のような者から見ても、あまりスマートとは言えない。この女は、痔を患っていて、化膿して赤く腫れあがった肛門を平気で秋声に見せるほどデリカシーに欠けた女なのだ。つまり田舎者なのである。出身は、小説の中では山形のあたりということになっているが、実在の山田順子は秋田の出身である。秋田は美人の宝庫と言われるが、秋声はその美人である女の美貌に夢中になったということになっている。

この小説は私小説であるから、そこに描かれた秋声と女との関係や、秋声自身の気持などは、実際をそのまま表現したのだろうと受け取られた。かれらの関係は、ゴシップ雑誌などが面白おかしく騒ぎ立て、秋声もまたそれをある程度宣伝のためと思っていたフシがあるので、さまざまに暴露されてもあまり怒ることもなかった。それがゴシップ雑誌をさらに勢い付け、つねに監視されては、男女の情痴を暴露される始末だった。小説の中では、主人公の男たる秋声は、雑誌記者たちの振舞いを迷惑そうに受け取っているが、実際には、久しぶりに書いたこの小説にとって宣伝になるくらいに思っていたのではないか。

秋声がこんな小説を書いたのは、やはり当時の日本に作家の私小説を娯楽として受け入れる文化があったからであろう。日本の近代小説は、無論ヨーロッパ文学の模倣から始まったのだが、ヨーロッパ文学には、私小説というジャンルはなかった。私小説は実際をありのままに描くという点で、リアリズムの伝統につながるといってよいところもあるが、私小説がリアリズムであっても、リアリズムはかならずしも私小説にはならない。ところが日本では、リアリズムをめざした作家たちが、ごく自然に私小説を書くようになった。それには、近代以前の文学の伝統があったかというと、そうともいえない。徳川時代の演劇や文学には、心中事件など実際の出来事に取材した作品が数多くあったが、かならずしもリアリズムとは結びつかない。むしろ様式的な面が強い。

だから、日本における近代のリアリズム運動が、なぜ私小説を大量に生みだしたのか、それ自体大きなテーマになるところである。

秋声の文学は「あらくれ」(1915)で一つのピークに達した後、下降期に入ったと評させる。新たに勃興したプロレタリア文学に、追いたてられたというのがその理由としてあげられる。秋声は「仮装人物」を、1935年から同37年にかけて、経済誌に断続的に発表したのであったが、それはプロレタリア文学が大弾圧を被って衰退した隙間を埋めるような形であった。プロレタリア文学が衰退して開いたた穴を、昔ながらの私小説が埋めたということになろうか。

私小説が多少なりとも読者の共感を得るためには、作者の人格をはじめ登場人物たちの人間的な魅力とか、かれらの時代とのかかわりとかが何らかの形で表現されていなければならないだろう。ところが秋声の小説「仮装人物」の登場人物は、主人公の作家秋声をはじめ、みな魅力に乏しい人間ばかりだし、そのかれらは自分自身のことばかりしか考えられない利己的なものばかりで、時代と切り結ぶような覚悟は全く持ち合わせていない。これは、あるいは、秋声だけの責任ではなく、当時の日本社会全体が持っていた限界のしからしむるところだったのかもしれない。





コメントする

アーカイブ