斎藤美奈子「冠婚葬祭のひみつ」

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斎藤美奈子といえば、パンチの聞いた社会批判を繰り広げるいまどき珍しい女性として知られているが、その斎藤が冠婚葬祭のマニュアルを、しかも硬い編集方針で知られる岩波新書から出したというので、興味半分で読んでみた。読んでの印象は、斎藤らしからぬ世間知を駆使したもので、まさにマニュアルの名にふさわしいといったところだ。冠婚葬祭の知識というのは、世間知の最たるものというべきなのだが、その世間知を斎藤は、若いころにやっていた雑誌の編集の仕事から学んだというようなことを言っている。雑誌の特集にマニュアルめいたものがあるが、それは、ほとんど何も知らないといってよい人を対象に、噛んでふくめるように説明するのが肝要なことだそうだ。そうしたプロフェッショナルな姿勢を斎藤は、このマニュアル本の中でも貫いている。

斎藤は、冠婚を代表させて結婚式を、葬祭を代表させて葬式を主に取り上げている。結婚式も葬式ももともと家で行われるというのが日本の長い伝統だったが、明治以降、特に大正以降、結婚式場とか葬儀所といった特定の空間でなされるようになった。それには、時代の変化に伴う日本人の生活スタイルの変化が影響しているといったごく常識的な理由をあげている。結婚式についていえば、大正天皇の結婚式が神前形式で行われたのが、庶民に大きな影響を与え、猫も杓子も神前結婚式を行うようになったのだという。これが日本人の伝統的な宗教意識に根差したものと言えないのは、最近の若い連中が、猫も杓子もキリスト教式の結婚式をあげるようになったことからわかる。今時の若い連中の九割ほどは、キリスト教徒でもないのに、キリスト教式の結婚式をあげるのだそうだ。小生の親戚にもそうしたカップルがいくらもいる。

葬式が仏式になったことついては、斎藤は説得力のある説明をしていないが、結婚式が専門の会場で行われるのと並行するかたちで葬式も葬祭場で行うようになり、その際に坊主にお経を読んでもらうようになったというふうに考えているようだ。

今の日本が直面している社会的な問題状況は、斎藤によれば、少子多死社会という言葉で表現されるという。これは冠婚葬祭に直接大きな課題を突き付ける、少子ということは、結婚するカップルの絶対数が減ることだ。それに加えて近頃の若い連中は、結婚しない選択をするものの割合が、同世代の四分の一にも上るという。要するに結婚式の需要が劇的に減少しているのだ。

一方、葬式の需要はウナギのぼりだ。すくなくとも、団塊の世代がほぼ全員世の中からいなくなるのは、2050年頃のことと思うので、そこに向かって死者の数は厖大な規模にのぼる。それによって一番困るのは、火葬の能力が追い付かないということだ。斎藤はあまり深堀りしていないが、かつて葬儀業界に身を置いたことのある小生は、遠くない時期に東京の火葬の需給はひっ迫し、死んでも焼いてもらえない遺体があふれかえるであろうと予測している。火葬場の建設はそう簡単には進まないので、これは日本国全体の問題として、政府が先頭になって取り組むべき事柄である。

結婚式の需要が減り、葬式の需要が増えるのであるから、施設の有効活用という視点からも、それぞれ別の式場で行うというのは不経済であり、いずれ一つの式場が結婚式も葬式も両方こなすようになるだろうと斎藤は推測している。

この本は基本的には、冠婚葬祭についてのマニュアルであるが、初心者向けということもあって、多少教訓たらしいところもある。たとえば、両性の結婚にあたっては、女性はもっと声高に自己を主張すべきだとか、葬式にあたっては、いままでは葬式をされる客体としての死者の意向はほとんど問題にされなかったが、今後は、死者といえども自分の言い分を主張すべきである。とはいえ、死んでしまってからでは、口がきけないのであるから、生きている間に、死者の候補者としての立場から、自分の死後の扱いについて明確に意思表示をしておくべくだろうという。

小生も齢古希を過ぎて、遠からず成仏すべき頃合いであるから、自分の死のことは少しづつ意識に上るようになってきている。できれば自宅の畳の上で死にたいが、死んですぐ死亡診断書を書いてもらわねばならぬので、いまからそれをしてくれる医者を決めておかねばならない。また、死んだあとは、なるべく簡素な葬儀ですまし、墓は両親のために作った墓に収めてほしい。戒名は亡父と同じく、菩提寺の住職に頼めばよい。葬儀費用は、生命保険で十分充当できるであろうし、また、当面入用な額は別途用意しておく、といった具合である。それ以上先のことまでは、いまのところは考えていない。家族に余計な負担をかけないで、静かに成仏したいと思っている。





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