民権から国権へ:日本の右翼その三

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玄洋社は日本の右翼の最初の本格的組織といわれるが、当初は自由民権派の一つだったのであり、また、単なる一地方の党派として、全国的な知名度はゼロに近かった。その玄洋社が一躍全国に名を知られるもととなったのは、明治二十二年(1889)の大隈重信暗殺未遂事件であった。大熊は、明治十九年(1886)頃から本格化する不平等条約改正問題に深くかかわり、大隈私案と呼ばれる条約改正案をまとめるにいたっていた。この改正案を「ロンドン・タイムズ」が明かにすると、その屈辱的な内容に怒りの声が巻き起こった。そうした怒りの声を玄洋社が受けた形で大隈暗殺事件を引き起こしたのである。

暗殺実行犯は玄洋社の元社員来島常喜であり、頭山とは旧知の間柄であった。大隈の案に激怒していた頭山は、来島をそそのかして大隈に爆弾を投げさせた。来島はその場で自決したのだったが、玄洋社には捜索の手が入った。しかしどういうわけか頭山は捜査の手を逃れたし、玄洋社の社員のほとんどがお咎めなく終わった。かえって来島の行為は広範な人びとによって称えられ、玄洋社は一躍愛国結社として名を知られるようになるのである。

なお、頭山が売国的だと言って激怒した条約改正案の内容のうち、もっとも問題になった項目は、大審院の判事に外国人を採用するというものであった。外国人に日本人を裁かせるのは、諸外国が日本人をまともな人間と見ていない証拠である、と頭山は怒った。そのほか、内政への干渉や課税自主権の制限などが憤慨の種となった。

大隈襲撃は、頭山なりの愛国主義から発したものだった。かれにはもともと、民権主義と国権主義とが矛盾なく存在していたのだったが、その二つの要素のうち、次第に国権主義が強まっていった。その転機を画するとされるのが、明治十四年(1881)における九州改進党との軋轢である。同年明治政府が国会開設の詔を発すると、板垣ら民権派は自由党を結成し、全国の民権運動の盛り上がりを狙った。九州にはそれに呼応して九州改進党が結成されたが、頭山は、自由党が九州改進党を自由に操ろうとすることに反発して、独自の道を歩むことを選んだ。それ以来頭山は、民権派とは一線を画しながら、国権主義へと傾いていった。

明治二十四年(1891)、第一回衆議院選挙が実施された。この選挙は、民権派対吏党派の対立といわれた。吏党派とは政府よりの政党という意味である。頭山や玄洋社は吏党派の立場に立ち、民権派に対してさまざまな選挙干渉を行った。にもかかわらず、定員300のうち民権派は171議席を占め、山縣内閣には打撃となった。なお、この選挙において玄洋社は、福岡から出馬して3人を当選させた。福岡では、玄洋社がかなり有力だったのではないか。

翌明治二十五年(1892)の第二回衆議院選挙では、政府による露骨な選挙干渉が行われた。玄洋社も政府側に立って、民権派候補への攻撃を行った。この時点では、玄洋社は完全に権力側に立っていたのである。日本の右翼運動はその後も一貫して権力に寄り沿い続けるのであるが、そういう姿勢は玄洋社の当初の活動を彩っていたわけである。ともあれ、第二回衆議院選挙でも、露骨な選挙干渉にかかわらず、民権派が多数をとった。そのため、時の松方内閣が総辞職を迫られたほどである。

頭山ら玄洋社を政府支持に傾けさせたのは、国際情勢の認識の厳しさであった。不平等条約問題にみられるように、日本は列強によっていいように主権を侵犯されるばかりか、国の存亡にかかわるような危機に直面しているとの認識があった。国を守るのがまず当面の課題であり、そのためには、国内で対立しあっている場合ではない。そうした認識が、富国強兵への主張へとつながり、あくまでも民権を第一に主張する民権派を敵視させたのだと思う。

国権主義は玄洋社だけの専売特許だったわけではない。明治二十五年(1992)、松方内閣の内相だった品川弥次郎と薩摩閥の西郷従道らが国民協会を作った。これは国家万能をうたう典型的な国粋主義政党であった。これに玄洋社も参加するように誘われたが、頭山はそれを断った。国民協会の連中は口先だけで、行動がともなわぬというのがその理由だった。日本では、単に国粋をとなえるだけでは本物の右翼ではない。本物の右翼は、国粋の理念を行動によって実現せねばならない、と頭山は主張した。要するに行動第一主義なのである。そうした体質は、その後の日本の右翼の基本的な特徴として、連綿と引き継がれていく。





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