長谷川宏「同時代人サルトル」を読む

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長谷川宏は、ヘーゲルの文章を分かりやすい日本語に翻訳したことで知られる。小生も、「精神現象学」を読み直すにあたっては、かれの翻訳の世話になった。その長谷川は、ヘーゲルだけではなく、サルトルにも強い関心を寄せていたようである。かれがサルトルの本格的な哲学論文を日本語に訳したとは聞かないが、サルトルへの自分自身の思いを吐露した本を書いた。「同時代人サルトル」(講談社学術文庫)である。

タイトルから察せられるとおり、長谷川はサルトルに同時代人としても強い共感を抱いていたようである。それはこの本の文章の調子からわかる。学術論文というより、サルトルへのオマージュといってよい。そのオマージュを長谷川は、単にサルトルにささげるのみならず、それをつうじて自分自身の熱い思いを語っている。サルトルにはそういうところがあるらしく、彼に取りつかれた日本人は、サルトルの思想をテクストにそって丁寧に読み解くという手続きを踏むことなく、自分自身の思い入れを垂れ流している感がある。長谷川も、基本的には、例外ではないようだ。

だから、サルトルの思想の輪郭なりとも知りたいと思ってこの本を読んでも、あまり成果は得られないと思う。一応主著である「存在と無」にも触れているし、その存在が無としての意識に支えられており、その意識の本質が自由であり、その自由をもって自分自身を投企するのが人間のあるべき姿なのだという、サルトル思想のエッセンスみたいなものへの言及はある。だがそれは、あっさりと触れられているだけで、読者は言葉の表面的な意味の周辺をさまようだけといった物足りなさを感じさせられる。

著者自身の言い分によれば、「存在と無」を五回も完読したということであり、そこに提起されたサルトルの思想を熟知しているようだから、かれなりに解釈したものでもいいから、サルトルの思想の持った意義についてもうすこし丁寧に語ってほしいと思った次第だ。

サルトルの思想をとりあげる場合、もっとも厄介なことは、初期の代表作である「存在と無」と、戦後の代表作である「弁証法的理性批判」の関係をどうとらえるかということだろう。小生などは、この両者は基本的に断絶しており、したがって全く異なった問題意識によって書かれていると考えている。「存在と無」の問題意識は、意識が存在を基礎づけるという徹底的な観念論である。唯心論といってもよい。それに対して「弁証法的理性批判」は、意識を物質によって基礎づけようとする試みである。要するに唯物論的な問題意識に導かれているわけである。サルトルにおけるこの大転換は、コミュニズムへのサルトルのコミットメントに発していると思われる。サルトルは一時期マルクスにかぶれたのであるが、マルクスの唯物論と自分自身の唯心論を何とか和解させようとして、わけのわからぬ本を書いたというのが実際のところではないか。

海老坂武もそうだったが、長谷川も、サルトルの哲学的な著作よりは、文学的・演劇的な創造のほうを重視している。とりわけ彼が力を入れて論じているのは戯曲である。サルトルの戯曲は、初期の短編小説同様、非常に観念的で、現実性を感じさせないことは長谷川も認めている。それは一概に短所とはいえず、サルトル文學の思弁性の吐露といってもよいのだが、やはり現実味を感じさせない人物は、小説の主人公にはなりえても演劇の主人公にはふさわしくない。だから十篇あるサルトルの戯曲はだいたいが現実味を欠いた人物が観念的な想念をわめきたてることで終わっているのだが、ひとり「悪魔と神」のなかのゲッツだけは現実的な厚みを感じさせる。そう言って長谷川は、サルトルの戯曲「悪魔の神」に演劇史上に輝く傑作としての位置づけを与えているのである。

「悪魔と神」が現実感のある人物を描いているとすれば、初期の小説「嘔吐」は、現実感に欠けた人間の空虚な思念について語っているということになる。この「嘔吐」という作品は、小説というより哲学的な思弁の開陳といったほうが当たっているのだが、そこに盛られていたのは、「存在と無」におけると全く同じ問題意識である。「嘔吐」は、実存は存在に先立つというサルトルの有名なテーゼをそのまま表現したものだとされ、その実存とは意識のことに他ならなかったから、「嘔吐」が描いているのは、意識そのものである。その意識が充実を感じさせず、全く空虚だという発見がロカンタンに嘔吐を催させるのである。

そのほか、ジュネ論だとか、歴史意識論だとかサルトルのさまざまな業績について簡単な紹介がある。この本を読むと、サルトルがいかに幅広い活動をしていたか、あらためて分かる。だが、主著の「存在と無」を始め、今日サルトル思想と言われているようなものの内実がいかなるものであったか、その理解に導くような書き方にはなっていない。この本を通じて伝わってくるのは、サルトルがいかなる思想を展開したかではなく、同時代人としてのサルトルに、極東の日本人である長谷川がいかに感激させられたか、ということである。





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