中論を読むその三:運動(去ることと来ること)の考察

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「中論」の第二章は、「運動(去ることと来ること)の考察」と題して、八不のうちの「不去不来」を表面上のテーマとしているが、そのほかに「不一不異」はじめ八不全般に共通する問題を取り扱っており、「中論」の思想の中核部分の表明というふうに受け取られてきた。

ここでは、去ることと来ることとが運動全般を代表するものとして扱われる。平川訳では、「去ること」が「行くこと」と訳されているが、意味はかわらない。そうした上で、去ることと来ることに代表される運動というものを否定するのがこの章の目的である。それは客観的で具体的な運動を否定するのではなく、運動という概念を実体視することを否定するのだと表明される。

ここでも、運動という概念を実体視する人びととの論争という形をとる。運動を実体視する人々は、去るという働きが自性として存在し、その働きが去る主体と結び付くことで、去るという運動が生じると考える。つまり、去る主体と去る働きとを別個なものとして考えるわけである。そうした考え方をナーガールジュナは攻撃する。それは相手の弱みを暴くことに専念するあまり、やや暴論に近い言い方をしている気味も感じられるが、要するにナーガールジュナの言いたいことは、去る主体と去る働きとを別個の自性と考えることはできないというものだ。それをナーガールジュナは、去る主体と去る働きとは一であってしかも異なるものではない、というような、詭弁に聞こえるような言い方で表現するわけである。

この章は、次のような文章(詩)から始まる。「まず、すでに去ったもの(已去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない」。これは運動全般の否定のように解されるので、早速反対意見が出てくる。その意見をナーガールジュナは説一切有部の実念論で代表させ、それへの反駁を通じて自説の正しさを間接的に証明しようとする。反対者の意見は、「動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>(去時)に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないがゆえに、<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある」というものだ。それに対してナーガールジュナは、去る主体や去るはたらきのほかに動きという第三のものを導入すれば、収拾のつかない事態に陥ると批判する。

反対者は、去る主体と去る働きとを別個なものとしてそれぞれ自性のものと考えるばかりか、動きという第三の概念まで持ちだして、相互の関係を云々するのであるが、去る主体は去る働きを離れては意味を持たないし、去る働きは去る主体を除外しては無内容である。要するに去る主体と去る働きは相依関係にある。問題は関係をあくまでも相互的なものと見ることであり、関係を構成する要素を実体視してはならない。

このように、相依関係にある二つの概念は、一でもなければ異でもないという説を「一異門破」と中村は言う。一異は不一不異を詰めた言い方であり、門破は相手を論破するという意味である。ナーガールジュナの論争方法は、この一異門破を通じて相手の主張を論難し、そのことで自分の主張の正しさを間接的に証明するというやり方である。

それにしても、すでに去ったものも、いまだ去らないものも、いま去りつつあるものも、いずれも去らないとするナーガールジュナの主張はかなり詭弁に近いように聞こえる。いまだ去らないものが去らないのはなんとなく分かるが、すでに去ったものは、やはり去ったのであって、去らないとは言えないのではないか。ましてや、いままさに去りつつあるものが去らないとは到底言えないのではないか。少なくとも西洋流の形式論理の考え方とは合わないような気がする。とはいえ、ナーガールジュナの本意は、運動そのものを否定することではなく、運動という概念を実体視することへの批判であるわけだから、その理屈に無理があるからと言って、説全体を否定するのは行き過ぎかもしれない。

ところで、一見して運動を否定しているかのように見えるナーガールジュナの論法は、西洋の学者にとっては、やはり運動を否定したゼノア派の説を想起させたようで、この両者はいずれも運動を否定したものとして比較された。だが、運動についての両者の見方は根本的に異なっている。ゼノン派の運動否定は、空間の無限分割という観念を根拠にしていたが、ナーガールジュナには運動を空間と結び付けて考える姿勢は見られない。かれが一見運動を否定しているように見えるところでは、運動を空間的なものとしてではなく、抽象的な概念として捉え、その概念には実在性がないから、概念としての運動にも実在性は認められないと主張しているだけである。





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