町の踊り場・死に親しむ:徳田秋声の短編小説

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「町の踊り場」と「死に親しむ」は、ともに昭和八年(1933)に書かれた。どちらも秋声の日常に取材した私小説風の作品である。「町の踊り場」は、姉の危篤を受けて故郷の地方都市(金沢)に戻った日々を描き、「死に親しむ」は、友人の医師の死をテーマにしている。二つの作品には、これといった関連はないが、どちらも踊り(社交ダンス)が小道具がわりに使われている。「町の踊り場」のほうは、気晴らしにダンスホールに出かけて行って初体面の女性と踊る秋声の分身が描かれるのであるし、「死に親しむ」のほうは、主人公の「彼」とその友人の医師はダンスを介して結びついているのである。

秋声は、いまでいう「ダンスホール」を、「踊り場」という古風な言葉で言及している。そのダンスホールは稽古もしてくれるようだから、ダンス教室といったほうがいい。それを「踊り場」というから、いかにも風俗営業かなにかを連想させる。じっさい踊り場は、単に社交ダンスの会場のみならず、風俗的な関心をも満足させるものだったのかもしれない。

「町の踊り場」には、主人公がダンスをするほか大した出来事は起こらない。それに対して「死に親しむ」のほうは、ダンスのほかに色々な出来事がある。友人の医師の死がもっとも重要な出来事と言えるが、そのほか、「彼」と元芸妓との関係も描かれている。この元芸妓は、後に小説「縮図」の主人公となる女性をモデルにしているようだ。その女性は、小石川白山で富弥という名で出ていた。本名は小林政子である。その政子と秋声は、昭和六年(1931)に知り合ったというが、たちまち膠の如くくっついたらしい。秋声が政子を小説に登場させるのは、この「死に親しむ」が最初で、以後、遺作の「縮図」にいたるまで、いくつかの作品の中に登場させている。秋声は、「あらくれ」脱稿後しばらく陥っていたスランプ状態を、山田順子の登場によって創作欲を駆り立てられて脱却するようになり、順子が去った後は、政子がそのかわりとなったようである。

もっともこの小説「死に親しむ」の中では、政子と思しき女はわき役の位置づけであり、主要なテーマは、主人公の「彼」とその友人医師との交流である。その医師は、肝臓癌にかかってしまうのだが、あえて治療することもなく、病状の進行するにまかせたあげく、自分の郷里に引きこもって、そこで死を迎えるのである。その医師には、妻子がいるのだが、妻子は東京に残ったままで、しかも医師の死の知らせを最初に受けたのは、主人公の「彼」だったというから、その医師の家庭生活はうまくいっていなかったと思われるように書かれている。

この小説の主なテーマは、男同士の友情で、それにダンスとか女のことが結びつけているのである。ダンスは別にして、女のことに関して言えば、主人公もその友人の医師も、女癖の悪い男として描かれている。女癖が悪いというのは、女を単に遊びの手段として扱うだけではなく、不要に惚れてしまうということである。男が女に惚れるというのは、多くの場合、男にとって不覚といえる。本当の女は女房一人でいいので、それ以外の女は、その場の遊び相手として適当にあしらっておればよいのである。そういう価値観は、明治以降の日本の男達、とりわけ俄成金の連中の間で流行っていたもので、いかにも成金国家日本の内情を反映したものだった。そうした露骨な成金趣味を、秋声も共有していたということではないか。要するに秋声は、少なくともこの小説の中では、女を一人前の人間としては扱っていないのである。

ともあれその成金趣味を秋声は次のように表現している。「何といったって金ですよ。金がなかった日にゃ、恋愛もはあ屁ったくれもあったもんじゃないですよ」。これは医師の吐いた言葉だが、無論主人公もその考えを共有している。そんなわけだから、この医師のように金の稼げなくなった男は無用の存在となり、この世からあっさり「消し飛んで」しまわねばならぬのである。






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