敗戦と右翼:日本の右翼その十

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日本の敗戦をめぐっては、軍の一部にこれを認めず、徹底抗戦を叫んでクーデタを計画するものがいた一方、右翼のなかにもこれを否認して抗議する動きがあった。しかしどちらも大した成果もなく失敗している。このうち右翼の抗議行動として知られているのは、愛宕山事件、松江騒擾事件、代々木練兵場事件である。

愛宕山事件は、昭和二十年(1945)八月十五日に起きた。その日昭和天皇の玉音放送に接した右翼団体「尊攘同志会」のメンバーが、重臣暗殺を名目に武装蹶起し、木戸内大臣らを襲おうとして失敗し、芝の愛宕山に立てこもった。かれらは軍内部の抗戦派も同時に蹶起するものと期待していたようである。しかし、警視庁の警察官七十名に包囲され、にらみ合いを続けた挙句、一週間後の八月二十二日に集団自決した。かれらは天皇陛下万歳を叫びながら互いに手榴弾を爆発させ、十人が爆死。その後、かれらの夫人三名も後追い自殺したというものである。この事件は、軍の一部とのかかわりが指摘されているものの、大局的に見て、大した影響を及ぼすことはなかった。

松江騒擾事件は、同年八月廿四日に起きた。これは岡崎功という当時二十六歳の青年が中心となっておこしたもので、四十数名が敗戦抗議の蹶起に参加した。いづれも二十代前半の若者たちである。かれらは自らを皇国義勇軍と名乗り、松江市内の主要な施設を襲撃した。島根県庁を焼き討ちしたほか、電力会社、新聞社、放送局などを襲った。民間人の集団がこれほど大規模な騒擾を起したというので、支配層にはショッキングな出来事だったが、影響の広がりが見えなかったことで、歴史の小さな逸話にとどまった。とにかく、無計画に近く、その場の激情(愛宕山事件に対する憤慨が主な動機)にかられただけで、まともな武器も用意していない状態だったから、警察に取り囲まれると簡単に降参した。

代々木練兵場事件は、同年八月二十五日に起きた。これは戦前からの有力な右翼団体大東塾のメンバーが起こしたもの。塾代表の影山正治が出征中だったため、その父親庄司が独断で起こしたらしい。庄司を含む十四名のメンバーが、代々木の練兵場で集団割腹自殺したというものだが、遺書を残しているにかかわらず、動機は不分明である。「清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らん」と記されているだけである。

この三件のほか、明朗会事件やいわゆる宮城事件を中心とする軍部の一部によるさまざまな騒擾事件が、敗戦直後に相次いで発生しているが、それぞれ散発的な動きにとどまり、大衆的な規模への広がりや、支配層への深刻な打撃というものには繋がらなかった。

かれらを突き動かしていたのは、とりあえずは徹底抗戦。一億総玉砕といった、そもそも軍の首脳部によって示されたスローガンであったが、当の軍首脳部が敗戦を受け入れ、降伏の方針を決定した後では、独りよがりな暴走というほかはなかった。ただ、軍の一部や右翼のなかに、徹底抗戦の動きがあり、それが実際の行動となって表れたという歴史的な事実は、それなりに重く受け止める必要があろう。

ともあれ以上の事件は、右翼のほんの一部が示した突発的な事態であって、右翼勢力のほとんどは、時代のなりゆきを傍観していたといってよい。





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