貧しき人びと:ドストエフスキーの処女作

| コメント(0)
ドストエフスキーが処女作の「貧しき人びと」を書いたのは、満二十四歳のときだから、若書きといえる。若書きにありがちな不自然さを感じさせる。たとえば、この二人の人物設定だ。二人ともこの小説のテーマである「貧しさ」を象徴する人物として設定されているが、そもそもかれらは普通の庶民ではない。マカール・ジェーヴシキンは一応九等官の役人という設定だし、ワルワーラ・ドブロショーロワは、孤児の身の上とはいえ、侍女を召している。侍女を召しいているほどの人間が、赤貧の境遇にあるとはいえまい。そこでタイトルにある「貧しき」というのは、文字通りの意味ではなく、どちらかといえば、「哀れな」というような意味合いの言葉ではないかとの推測がなされてきた。ロシア語の бедный という言葉には、フランス語の pauvre と同じく、「貧しい」と「哀れな」という二重の意味があることを踏まえてだ。

一応「貧しき人びと」として前提したうえで、この小説を読みたいと思う。そこでドストエフスキーが、自分の文学的なキャリアのスタートにあたって、なぜ「貧しさ」を選んだのか、ということが問題になる。プーシキン以来、ロシアの近代文学において、貧しさがメーン・テーマとなった作品が書かれたことはない。ドストエフスキー以後にも、社会主義リアリズムも含めて、正面から「貧しさ」を取り上げた作品はほとんどないのではないか。そんなわけだから、ドストエフスキーが処女作のテーマとして貧しさを選んだということには、ちょっと引っかかるものを感じるのだ。この小説の中で、貧しさは、ただに生活上の困苦をもたらすばかりでなく、人間性を破壊するものとして描かれている。ワルワーラは貧しさに耐えられず、意に添わぬ結婚を決断するのだし、ジェーヴシキンは、ただ一つの生きがいである彼女を失って、生きていく望みを砕かれるのである。かれらの絶望の深さは、かれら自身の手紙の文言から伝わってくるのだが、それは本人の心からの叫びであるから、実に身につまされるような悲惨さを以て迫ってくるのである。

小説は、二人の人物の間の往復書簡集という構成をとっている。何らの導入もなく、いきなり二人が互いにあてた手紙が、時間の順を追って紹介される。ということは、小説の語り手が不在だということだ。普通、書簡体の小説にあっては、小説全体の語り手がなんらかの形で導入の役割を果たすものである。ところがこの小説には、そのような導入の工夫がないために、われわれ読者は、たまたま接した他人の手紙を盗み見たような感じになる。その手紙というのが、中年の冴えない男とうら若い女性との間の、愛の告白のようなもので、その愛が成就することなく、不幸な別れで終わっている。なぜそうなってしまうのか、その事情は手紙の文面から伝わってくるようになってはいるが、なにせそれは本人たちの、いさいさか逆上気味の説明を通してなので、主観的な思い込みの域を出ないとも言えない。彼らの置かれた状況を、第三者の客観的な視点から説明するということがないので、かれらの叫びはどうしても主観的な雰囲気を帯びざるをえない。そのかわり第三者には到底思い浮かばないような、当事者の心の痛みがストレートに伝わってくるということはある。

このように、小説の構成において、語り手を登場させないやり方を、江川卓は「ゼロの語り手」と呼んでいる。小説において、語り手は物語の進行を秩序を以て語り、登場人物たちの相互の関係とか、かれらの置かれている状況とかを、統一した視点から語るわけであるが、その語り手が不在であると、登場人物たちは、自分の言いたいことを勝手に言うようになり、人物同士の関係とか、かれらの置かれた状況とは無関係に、人物の主観的な思い込みがダラダラと表出されることとなる。それは、ほとんどの場合、小説の構成を破綻させる方向に働くものだが、ドストエフスキーの場合には、そうはならずに、人物同士の語り合いが、ある種のハーモニーを奏でるようになる。そう指摘したのは、ロシア・フォルマリズムの旗手バフチンで、バフチンはそれを「ポリフォニー」と読んだ。「ポリフォニー」とは多くの声が同時に聞こえてくるという意味だが、それららの声がばらばらにではなく、ある種の調和を醸し出すということに着目した言葉である。

そのポリフォニックな小説の構造は、ドストエフスキーの世界の最大の特徴だとバフチンは言ったわけだが、その特徴が早くもこの「貧しき人びと」にも現れていると指摘できる。これは、第三者としての語り手が不在のまま、登場人物たちがそれぞれ勝手なことを言いながら、しかもその言い分の間から、或る種の調和が生成してくるのである。

ドストエフスキーの小説世界の特徴について触れたついでに、かれのもう一つの特徴について触れておきたい。それは登場人物の病的な人間性である。ドストエフスキーの小説には、「白痴」のムイシュキン公爵を筆頭として、精神障害を思わせる言動をする人物が多出する。ムイシュキン公爵の場合には、その精神障害は癲癇を思わせ、ドストエフスキー自身が癲癇を患っていた事実がそこに重ねられるのであるが、「貧しき人びと」におけるジェーヴシキンの異様な言動は、癲癇というより、被害妄想を中核とした統合失調症を思わせるものである。ということは、ドストエフスキーは、自身が癲癇の発作に襲われる以前から、精神的な病理に深い関心を抱いていたということになる。そのことを以て、ドストエフスキーは、単に癲癇を患っていたのみならず、早い時期から統合失調症の症状に悩んでおり、その病的な体験を小説の世界に反映させたという見方もある(たとえば中村健之助)。

以上二つのことがらを抑えながらこの小説を読むと、全体の構図が分かりやすく見えてくるのではないか。往復書簡は、四月八日のワルワーラあてのジェーヴシキンの手紙から始まり、同年九月三十日付けのワルワーラの手紙で終わっている。その最後の手紙に対してジェーヴシキンは返事を書いたのだったが、それは彼女に届くことはなかった。その届かなかった手紙の中で、ジェーヴシキンはワルワーラを失ったことに伴う絶望を叫んでいるのである。一方ワルワーラのほうも、ジェーヴシキンへの切ない気持ちを吐露している。彼女は次のように書くのだ。「それでは、もう永久にお別れいたしましょう、あたくしの愛するお友だち、なつかしいお方、永久にさようなら!・・・」。こう書くことでワルワーラは、自分を待っている運命の厳しさに、おののいていたに違いないのだ。一方、届かなかった手紙の最後にジェーヴシキンが記した言葉は次のようなものである。「ああ、わたしの可愛い人、わたしのなつかしい人、わたしのいとしい人!」(以上、木村浩訳)






コメントする

アーカイブ