ドストエフスキーの反ユダヤ主義:中村健之介「永遠のドストエフスキー」

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中村健之介は「永遠のドストエフスキー」の中で、ドストエフスキーの反ユダヤ主義を取り上げて論じている。ドストエフスキーの反ユダヤ主義が大きな論争の対象となったのは、ゴールドシュテインの1979年発行の著作「ドストエフスキーとユダヤ人」がきっかけだったと中村は言う。その著作の中でゴールドシュテインは、様々な例を取り上げながら、ドストエフスキーの反ユダヤ主義を激しく攻撃したのだった。それが非常に大きな反響を呼んで、いまやドストエフスキーを論じるについて、その反ユダヤ主義的傾向を無視するわけにはいかなくなったという。

ドストエフスキーの反ユダヤ的傾向が、それまで見逃されていたわけではなかった。じっさいドストエフスキーの著作には、ユダヤ人を馬鹿にした描写はいたるところにあり、だれでもその反ユダヤ的傾向に気づかないわけにはいかないからだ。だが、そうした反ユダヤ的な傾向は、ドストエフスキーに限ったことではない。中村は言及していないが、プーシキンやゴーゴリの作品の中でも、ユダヤ人は否定的に、嘲笑の対象として描かれている。

だから、ゴールドシュテインがドストエフスキーを反ユダヤ主義批判のやり玉にあげたのは、なにか含むところがあったからだろう。それにしてもゴールドシュテインによるドストエフスキーの反ユダヤ主義への攻撃には、中村は疑問を投げかけている。中村が言うには、「そもそもドストエフスキーの小説には、『立派』な人間などまず登場しないのだ。だから、小説の中のユダヤ人の人物表現を取り上げて、その表現力、性格造形力を無視し、『立派』な人間に書かれていないからドストエフスキーは反ユダヤ主義者などと言うのはどうかしている」と。要するにゴールドシュテインは、一人のユダヤ人として、ドストエフスキーによるユダヤ人への嘲笑的な態度に腹をたて、この偉大な「博愛主義者」として通っている男の顔に泥をぬってやろうと考えたということか。そうだとしたら、ゴールドシュテインは、金玉を蹴られた犬のような反応を見せたということになる。

中村は、ドストエフスキーの小説においては、貶められているのはユダヤ人だけではなく、ロシア人も貶められている、という。ドストエフスキーが貶めているのは、特定の人種ではなく、ひどいことを平気でする人間なのである。そう言って中村は、ドストエフスキーは確信犯的な反ユダヤ主義者ではない、その証拠に、監獄時代にはユダヤ人と仲よく暮していたことをあげる。とはいえ、ドストエフスキーには、ポーランド人、ドイツ人、フランス人を含めて外国人嫌いの傾向はあり、それがユダヤ人への対応にも反映している可能性はあるとしている。

ドストエフスキーが熱烈なロシア礼賛者であったことはよく知られている。特に晩年にはそうした傾向が強まった。そのナショナリズムの熱気が、ドストエフスキーの晩年の小説のなかで、ユダヤ人がより否定的にかかれる原動力になった可能性はあるようだ。その点は中村も認めざるを得ないようで、晩年の小説を中心として、ドストエフスキーの反ユダヤ感情がだらしなく吐露されるようになった。そのことについては、何人も擁護できない。そう言って中村は、ドストエフスキーの反ユダヤ主義を擁護するモーソンを批判する。そのモーソンはゴールドシュテインについて、「ドストエフスキーの反ユダヤ主義が生まれてきた社会的背景を明らかにしようとしないこと、また、ドストエフスキーのユダヤ人嫌いがドストエフスキーの前あるいは後の反ユダヤ主義的な考えとどのような関係にあるのかを問おうとしないこと、それはゴールドシュテインの批評の『歴史性の欠如』だと批判している」。

ドストエフスキーの反ユダヤ主義が否定できないこととして、それがどれほど強い信念によるかについては、中村は懐疑的である。「ユダヤ人についてのドストエフスキーの発言は、社会評論家としてはひどい悪口を言っているのに、どこかいいかげんで、無責任なところがあるし、筋金入りの反ユダヤ主義者という印象を与えない・・・ドストエフスキーは確信犯的な反ユダヤ主義者ではなかった。しかしかれは、しばしば理想や妄想の危険性に気づかず、それにひきずられることがあった」。

要するにドストエフスキーの反ユダヤ的言動はかれの妄想のなさしむるところであり、また、晩年に極端になる熱狂的な愛国感情は、ゆがんだ理想がもたらしたものだということになる。ドストエフスキーは、その病を生きることで豊饒な作品世界を生む一方、その病にかられて反ユダヤ主義を亢進させたと中村はいいたいようである。かれにとってドストエフスキーとは、心を病んだ人間なのである。






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