トロツキーの全体主義的傾向:アイザック・ドイッチャー「武装せる預言者」

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アイザック・ドイッチャーはトロツキーについて、理想化するよりもなるべく公平に評価したいと考えたようだ。ロシア革命に果たしたかれの功績を高く評価する一方、かれの行動をかりたてた強権的な傾向について忌憚なく批判している。その傾向は全体主義といってよいものであり、のちにスターリンが衣鉢をついでソビエト・ロシアを全体主義国家に変えるに際しての、見本となった。つまりトロツキーは、スターリンの全体主義を誘導する役割を果たしたというのである。スターリンとトロツキーの関係は、全体主義に対抗する民主主義の闘いだったというのが、大方の認識になっているが、実はそうではなく、トロツキーはスターリンの全体主義の師匠だったというのである。

トロツキーの強権的な傾向は、革命の軍事指導者としての行動にまず現れた。ソビエト・ロシアは、国内の反革命と外国からの干渉に直面して、強力な軍事力を持つ必要があった。ところが革命後従来の常備軍はばらばらに解体してしまい、ほとんどゼロから構築する必要にせまられていた。そうした状況が彼を強権的にさせた。彼のもともとの軍隊観は、プロレタリアートの階級的利害を守るためのものであり、その運営は民主的であるべきはずだった。しかし、国家の異常事態時にそんな悠長なことは言っていられない。強力な軍隊を作るためには、強制的な徴用も必要だし、その運営は中央集権的でなければならなかった。そういった事情がトロツキーを駆り立てて、軍隊の強制的な徴用とか、その運営における強権的な態度を養ったのであった。そういう態度は実際効果を発揮した。そこでトロツキーはますます自分の強権的な手法に自信を深めたと言える。

トロツキーの強権的な傾向は、経済政策の分野でさらに強くなった。革命後のロシア経済は惨憺たる状態だった。生産力は革命前の数分の一にまで減少し、都市は飢餓に見舞われるありさまだった。そんな経済を回すには、二つの道があるように思われた。一つは経済的な自由化を推し進め、市場のメカニズムを回復させることだった。西洋流の資本主義システムのいい面を取り入れようというわけである。もう一つは、経済への統制を強化し、すべての資源を国家統制のもとにおき、国家が強制的に国民を動かすというものだった。これは今日「戦時共産主義」という言葉で表現されているものである。

トロツキーは、一時市場の自由化に傾いたこともあったが、結局は戦時共産主義の主導者となり、全体主義的な経済運営を追求することとなった。トロツキーには、いったんこうだと決めると、それを徹底的に追及する傾向が強い。そうした徹底性が、かれの振舞いを一層強権的なものにした。その強権性が、ソビエト・ロシアを全体主義に向かって推し進めていった。トロツキーが権力闘争に敗れて消え去ると、スターリンがそれを受け継いで完成させた。そうドイッチャーは考えるのである。ドイッチャーにとってトロツキーの最大のあやまりは、ソビエト・ロシアを全体主義化する原動力にみずからなったということである。

そうしたトロツキーの誤謬を、ドイッチャーは次のように表現している。「古典悲劇の主人公のように、まさに権力の絶頂でトロツキーはつまづいた。自分の信条に反し、最もおごそかな精神的責務を無視して、彼は行動した。周囲の事情、革命の保持、彼自身の矜持が、その苦境へ彼を追い込んだのであった」(田中、橋本、山西訳)。これはトロツキーをかなり理想化した言い方である。トロツキーは本来民主的で自由を愛する人間だったのに、直面する事態のダイナミズムに駆り立てられて、マキャベリ的に振舞わざるをえなかったと言っているように聞こえる。じっさいは、トロツキー自身にそうした傾向があったと言えるのである。トロツキーを理想化するのは、スターリンとの関係で、トロツキーに革命の理想を体現させたいという思惑が働くからであろう。そういう見方は、やはり強いバイアスを感じさせる。

ともあれドイッチャーは、「どうしてこんな異常な事態が起こったのか? 武装し勝利を得た革命の預言者に、自分自身の予言の趣旨と撞着させるにいたったものは、何であったか?」と言って、トロツキーが強権的に振舞った原因を分析する意思を示している。だが、十分納得できるだけの理由は簡単には見つからない。せいぜい、革命を守ろうとする強い決意が、トロツキーを必要以上に強権的にさせたという程度である。その革命を守ろうとする意欲が、戦時共産主義を選択させたのであり、いったん選択をなした上は、それを徹底的に追及するというのが、トロツキーの性格がしからしめるところだというわけある。

労働は強制的な性格を強めていく。その象徴的なものが、トロツキーが推進したテーラー・システムだろう。テーラー・システムはもともと、労働者を効率的に働かせるために生み出されたもので、労働者を人間としてではなく、機械の部品のようなものとして扱うものである。自由な労働をスローガンとする社会主義思想とは全く相いれないものだ。それをトロツキーが率先して導入し、レーニンもまたそれを支持した。戦時共産主義時代の経済運営が、いかに非人間的なものだったか、それを象徴するのが、トロツキーによるテーラー・システムの推進といってよい。

トロツキーを先頭にたてた戦時共産主義に対して、やがて広範な反対運動がおこる。ボリシェビキのなかからも、それを公然と批判する運動が起きる。そうした動きが、レーニンに、戦時共産主義を中止して、いわゆるネップの政策を採用させた原因である。

ともあれ、トロツキーの逸脱ともいえる全体主義的な傾向は、当時マルクス主義革命家の間で有力だった「代行主義」の思想を反映したものだったとドイッチャーは分析している。代行主義とは、未熟な労働者階級の利益のために、前衛党が代わって行動するべきだとする主張である。これはまかりまちがえば、独善的な態度をはぐくむ。その独善が、無制約な独裁を生む土壌となる。じっさいスターリンの権力掌握を可能にしたのは、そうした思想が支配権を収めたからなのである。

スターリンが権力を握るにつれて、トロツキーは最大の批判者となった。ところがスターリンがじっさいにやったことは、トロツキーがやっていたことを忠実に実施したまでのことにすぎない。だから、権力を握ったスターリンに向けってトロツキーが、「プロレタリア・デモクラシーに帰れ」と叫んでも、空しい響きにしか聞こえなかった、とドイッチャーは厳しく批判するのである。






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