怨恨からやましい良心へ:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」

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怨恨とやましい良心についてのニーチェの議論は、かれが奴隷の道徳と呼ぶものの起源をめぐる議論である。奴隷は主人との関係で意味を持つので、主人の存在を前提とする。主人を否定することで、奴隷は積極的な意味を持つようになり、したがって単なる主人の付属物ではなく、自立した人間になれる。その場合、主人との関係における「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と卑劣」といった対立概念が大きな意味をもつ。奴隷は主人との関係において、能動に対する反動、肯定に対する否定、高貴に対する卑劣の側を代表する。いずれも積極的なものに対する受動的なものの反乱という形をとるが、それは具体的には怨恨をばねとし、また怨恨という形をとる。怨恨とは、能動に対する反動の反応であり、肯定に対する否定なのだ。怨恨はしたがって、強いものに向けられた精神の状態であるが、その怨恨が外にではなく、内側に、つまり自分自身に向けられるとやましい良心となる。怨恨はストレートな反応であるが、やましい良心のほうは宗教的で屈折した構えである。

まず、怨恨について。怨恨は、奴隷が主人に対して抱く感情である。奴隷はなぜ主人に対して怨恨を抱くようになるのか。それについてドゥルーズが理解するニーチェは、あまり立ちいった分析は行わない。奴隷とはそもそも主人を憎むようにできているものだ、と前提してかかるのである。主人に対する奴隷の言葉は、主人を貶めるものである。奴隷とはそのようなものなのだ。ニーチェは言う、「怨恨的人間において最も人目をひくのは彼の劣悪さではなく、その唾棄すべき敵意、その貶める能力である」(足立和弘訳)。奴隷がそのような敵意を以て主人を貶めるのは、そうすることで、自分を高めたいと思うからだ。かれは自分自身の優秀さによって自分を肯定するのではなく、他者を貶めることで、その反射的な効果として自分が高められたように感じるのである。「彼は他人が悪であることを欲しており、自分が善だと感じ得るために他人たちが悪者であることを必要としている。お前は悪い、ゆえに私はよい。これが奴隷の基本的定式である」。

それに対して主人の側、優れて高貴な人間は、他者との比較を必要としない。かれは端的に「私はよい」と言うのである。「私はよい」と最初に語るものは、
「自分を他人たちと比較する者ではなく、自分の行動や作品をより優れたあるいは超越的な諸価値に比較する者でもない。彼はそんなことから始めはしないだろう。『私はよい』と語る者は、よいと言われることを待ち望まない・・・そのような者は、事物に栄誉を授け、諸価値を創造するのは自分だと心得ている。彼は自分自身のうちに見出すあらゆるものに栄誉を与える。このような道徳は自己賛美である。それが前面に押し出すのは充実の感情と、溢れるばかりの力の感情であり、高くはりつめた内的緊張の幸福感、恵み与えることを熱望する富の意識である」。

ところが、「お前は悪い、ゆえに私はよい」という場合、事情はすべて変わってしまう。「否定が前提の中に入り込み、肯定は一つの結論、否定的前提からの一つの結論とみなされる。否定こそが本質的なものを含み、肯定は否定作用によってのみ存在する。否定は『根源的概念、始原、本来の行為』になったのである。奴隷の場合、外見上肯定的な結論を得るために、反動、否定、怨恨、ニヒリズムといった諸前提が必要である」。

要するに怨恨は、奴隷が主人を否定することで、おのれの存在意義を確認できるための唯一の根拠なのである。

怨恨からやましい良心への転化はどのようなメカニズムによって起るのか。怨恨は他者に向けられた感情であるが、やましい良心は自分自身に向けられた感情である。ではなぜ、他者に向けられた感情が、自分自身の内部へと反転することになるのか。それは奴隷が主人から自立し、自部自身の足で立とうとする姿勢に由来する。自分自身の足で立とうとするなら、もはや他者を云々することはできない。奴隷は自らの道徳を、自らの言葉で語らねばならない。そこで他者に向けられていた怨恨が、自分自身に反転する必要が生じる。いままで「お前は悪い」といっておられたのは、自分の外部に他者が存在していたからだ。ところがその他者を放逐して、奴隷が独り立ちしようとするなら、これまで他者に向けていた「お前は悪い」という言葉を、「悪いのは私だ」に転換させねばならない。だが、その転換は、奴隷自身が実現したわけではない。その実現には、僧侶が介在した。その僧侶たちが、キリスト教道徳を、奴隷の道徳たるを超えて、人間社会全体の道徳として確立したのである。

キリスト教道徳の本質は、人間の原罪を主張するところにある。人間は生まれながらに原罪を背負っているというのが、キリスト教全体の根本テーゼだ。原罪とは罪の意識のことであるが、それは突き詰めれば「私は悪い」という意味である。つまり怨恨の感情において「お前は悪い」と語られていたものが、キリスト教の道徳においては、「私は悪い」に転化するのだ。

キリスト教の僧侶は言う、「惨めな者たちだけが善良である。貧しい者、無力な者、卑小な者たちだけが善良である。苦しむ者、貧乏人、不具者だけが敬虔であり、また神に祝福されている。ただ彼らだけに、至福は訪れるであろう」。これは奴隷の道徳そのものである。強くて高貴な者を敵視し、弱くて卑小な者を慰める。それがキリスト教道徳の究極の役割である。そうした道徳にニーチェは強い嫌悪を示し、強くて高貴な者が自分本来の力をさまたげなく発揮できるような世界を夢想するのである。

ところで、そうした人類の傾向を、ニーチェは不可避で必然的なものと考えていたのか。これについてドゥルーズは、人間の本来のあり方とその堕落した形態とを区別したうえで、人間は原初においては力強い存在だったが、歴史の流れのなかで堕落し、奴隷のような存在になりさがっとニーチェは見ている、と解釈する。要するに人間は、歴史の流れの中で、類的存在としてのあり方から逸脱するようになった、と考えるわけである。その逸脱のさまを、ニーチェは「先史的」と「後史的」との対立を通じて説明するという。先史的というのは、人間に本来備わっている類的な特性のことをいう。それに対して後史的というのは、歴史の中で疎外されていくプロセスをいう。ニーチェもドゥルーズも「疎外」という言葉は使ってはいないが、その意味するところはほとんどマルクスの疎外論と同じといってよい。

この(疎外の)プロセスは、歴史の必然的な傾向をあらわすという。「反動的な力の勝利は歴史における一偶然事ではなく、『世界史』の原理であり意味である」というのだ。これはとりあえずドゥルーズによる解釈だが、ニーチェもまたそう捉えているとかれは言いたいのであろう。






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