コスタ=ガヴラス「ミュージック・ボックス」:ハンガリーでのホロコーストを米で裁く

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コスタ=ガヴラスの1989年の映画「ミュージック・ボックス(Music box)」は、第二次大戦中にハンガリーで起きたホロコーストをテーマにした作品。その事件がアメリカの裁判所で裁かれる。映画はその裁判の様子を描きながら、人間の尊厳について考えさせる。人間の尊厳いついての普遍的な感情が、肉親の情愛に優先するといったメッセージが伝わってくるように作られている。だから、ホロコーストの残虐性を訴えながら、実は道徳とはなにかを考えさせるきわめて倫理的な動機を盛り込んだ作品であるといえる。

大戦末期にハンガリーで行われたホロコーストの加害者が、事件から40年後にアメリカで告訴される。犯人は戦後アメリカへ移民し、かつての痕跡を隠しながら生きてきたのだが、ハンガリー政府から告発があって、アメリカの裁判所で裁かれることになる。その裁判の弁護士を犯人の娘が担当する。娘は父親を深く愛しており、父親の無実を信じてやまない。そういう信念をもって父親の弁護に努力する。娘はかなり有能な弁護士で、裁判を有利に運ぶ。次々とつきつけられる証拠をそのたびに否認し、裁判長に対して有利な心証を与えるのだ。ところが、裁判の実務にしたがってハンガリーのブタペストを訪れたことがきっかけで、意外な証拠を自ら入手する。それは40年前のハンガリーで、父親が多くの人々を虐殺した現場を映したものだった。その証拠を確認した娘は、父親への愛と真実との間で心が引き裂かれるのを感じるが、最後は真実を優先させて、父親を有罪にするというような内容である。

見どころはふんだんにある。まず、アメリカの裁判の実体が非常にわかりやすく伝わってくる。アメリカの刑事裁判は物証中心主義をとっており、証人の証言は二次的な役割をしめるにすぎない。日本では、第三者の証言は物証同様の効果をもつとされるが、アメリカではあくまでも物証を裏付けるための二次的な証拠にとどまるようだ。娘はそこをついて、証言者の信用性をあげつらいながら、その価値を貶めようとする。証言の内容はきわめて迫真性に富んでおり、現場にいたものでなければいえないようなものなのだが、それに娘はいちゃもんをつける。いちゃもんの理由は、証言者が共産党員だというような、人々の偏見をあおるようなものだ。裁判官も、そういわれて共産党員の証言は信用できないと思い込んでしまうフシがある。

アメリカの裁判は、検察と弁護士との間でなされるゲームのようなものだと言われる。ゲームにおいては、真実の発見より、ゲームの手腕が重視される。手際よくゲームを運んだものが、スマートだとされ、勝利を勝ち取る。じっさいアメリカの裁判では、限りなく黒のケースも、弁護士の手腕で白になることが多い。この映画のケースも、弁護士の手腕によって容疑者は無罪になりかかるのであるが、その弁護士の人間としての感情が、肉親としての感情に打ち勝って、真実を優先させるのである。

容疑者は、じつに不道徳な人間として描かれている。この男は、過去に非人間的な罪を犯した後、現在でも不道徳なことをし続けている。自分の過去を知っている男の死に深くかかわっていることなどである。その男が残していた資料が、容疑者の有罪を決定づけるのである。その証拠写真は、質屋に預けられていたミュージック・ボックス(オルゴール)の中に隠されていた。映画のタイトルは、その証拠品にちなんでいるのである。

裁判で明らかにされる容疑者の行為が、じつにおぞましい。とても人間のやることではない。それでも弁護士である娘は、最後の最後まで父親を信じている。しかしどんなに信じたくても、動かぬ証拠を見ては、人間として正しい選択をせざるを得ない。その選択は痛みを伴う。映画はその痛みをクローズアップしながら終わるのである。

容疑者は有罪になるが、そのことでアメリカで刑を受けるわけではない。かれは不法入国のかどで起訴されており、有罪の場合にはハンガリーに送還されるのだ。アメリカは彼の人道上の犯罪を裁くのが目的ではなく、不法入国を理由にハンガリーに引き渡すことが目的なのだ。つまりこの裁判は、極めて政治的なものなのである。





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