風姿花伝を読むその三 問答条々

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風姿花伝第三「問答条々」は、演能についての実際的な心得を問答形式で説いたもの。九つの問答からなっている。いづれも、具体的な項目であり、かつ実際的である。

第一は、観客のあしらい方について。観客席がざわざわしていては、演能はうまく運ばない。したがってよい頃合いを見計らって一声をあげ、観客の心を惹き付けるのが肝要である。それができれば、演能はスムーズに進む。だが、能というものは貴人を喜ばすのが本意であるから、貴人が早く来た場合には、それにあわせて演能の開始を早めねばならない。そういう場合には、演技を派手にして、目に立つようにするべきである。そうすれば自ずから観客も静まるであろう。

演能は、昼と夜では条件が違う。夜は昼に比べてしめっぽくなりがちなので、最初の出し物は派手なものがよい。具体的には、昼の二番目に出すものを、夜の最初に出せばよい。昼の演能は後半のほうが盛り上がる。夜の演能は最初を盛り上げべきである。

という具合に、演能は観客の状態にあわせてなすべきであるという、至極実際的な事柄から始めている。

第二は、序破急について。なにごとにおいてもこれは大事なことであるが、能も例外ではない。序破急の呼吸を大事にすべきである。具体的には、序は祝意を込めた演能をなすべきであり、二番・三番には得意の演目を演じ、最後の一番は技を尽くして見せるべきである。あたかも交響曲の構成のようである。

第三は、勝負の立合の手だて。勝負の立合とは、ライバルとの競演をいう。それを立合能と称した。敵方が色めきたる能をすれば、こちらは静かな能をするなど、相手の出方を考慮しながら演能を組み立てるべきである。

第四は、時分の花と真の花について。年功を積んだ役者が若い役者との立合に敗れることがある。これは時分の花の勢いに圧倒されるのである。そうなるのは、年功を積んだとはいえ、能の境地を極めていないからである。真の花を体得していれば、若い役者に負けることはない。

第五は、得意芸について。ひとにはそれぞれ得手不得手がある。すぐれた役者でも不得手な能はあるし、下手な役者にも得意な能はある。だらら、上手も下手も謙虚になって、他人から学ぶ姿勢を大事にせねばならない。

第六は、位の差別について。位とは段位のことであるが、それは稽古によって上がる場合と、生得のものとがある。位にはたけによるものと、かさによるものとがある。かさとは勢いのことで、これは稽古によってもたらされる。一方たけは幽玄なもので、これは生得の場合が多い。もっとも稽古を積んで芸が洗練されれば、幽玄味を出せる場合もある。

第七は、文字にあたる風情について。文字とは能の台本のことをいう。台本には謡曲の歌詞のほか、仕草や振舞いについての指示がある。それを忠実に再現するよう稽古すべきである。そうすれば、「音曲・はたらき一心になるべし」。

第八は、しほれたると申すことについて。しほれは、花あってこそ意味を持つ。「花のしほれたらんこそ面白けれ。花咲かぬ草木のしほれたらん、何か面白かるべき」。

第九は、花についての再論。時分の花は時がされば散る。それに対してまことの花は、「咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。されば久しかるべし」という。

以上、演能の極意について、問答体の形で世阿弥の考えるところを記した。世阿弥はそれを父親の観阿弥から受け継ぎ、自分の次の世代に伝えたいと述べて、この巻を結んでいる。曰く、「およそ家を守り、芸を重んずるによって、亡父の申し置きしことどもを、心底にさしはさみて、大概を録するところ、世のそしりを忘れて、道のすたれんことを思ふによりて、全く他人の才学に及ぼさんとにはあらず。ただ子孫の庭訓を残すのみなり」。





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