パラドックスについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、パラドックスについての議論から始まっている。とはいっても、パラドックスという言葉の意味がすでにわかっていることを前提として議論を始めているので、パラドックスという言葉の意味が十分わかっていないと、何が議論されているのか見当がつかないであろう。ひとつだけ、この言葉の意味にかかわりのありそうな言及はある。「良識{良い方向}は、あらゆる事物において、決定できる一つの意味{方向}があることの確認であるが、パラドックスは、同時に二つの意味{方向}を確認することである」というものだ。この文章は、パラドックスという言葉を、良識及び意味との関係で表現している。パラドックスをとりあえず良識と対比させ、良識が一つの意味方向を持つのに対して、パラドックスは二つの意味方向を持つといっているわけだ。

だが、そういわれても、パラドックスという言葉の意味を十全に理解するには到らないかもしれない。そこでもう少し原理的な考察を、ここでしてみたいと思う。それにはパラドックスという言葉とナンセンスという言葉を比較するのが便利であろう。両者とも、シニフィアンとシニフィエの関係性のずれを表現した言葉だからだ。前稿までに、ナンセンスとは一つのシニフィアンが複数のシニフィエと結びつき、それらが相互に排除しあう事態をさすという確認をした。一つの言葉が相互に矛盾した複数の意味をもつというのが、ナンセンスの基本的な内容である。では、パラドックスはどうか。パラドックスもまた、一つのシニフィアンに複数(ここでは二つ)のシニフィエが結びつくのであるが、ナンセンスとは違って、複数(基本的には二つ)のシニフィエが併立(両立)するのである。たとえば、AはBでありかつ非Bであるといった具合に。

つまり、パラドックスとは矛盾律に反した事態をさす言葉なのである。人間の思考は、基本的には矛盾率の要請に従うようにできているから、それに反することは受け入れられない。それをパラドックスという言葉で表現しているわけである。パラドックスという言葉の原義は、ドクサ(良識)を超脱(パラ)しているということである。良識は矛盾率に従っているから、矛盾率に反する事態は脱良識(パラドックス 日本語では逆説ともいう)と呼ばれるのである。

以上を踏まえたうえで、ドゥルーズのパラドックス論を考察してみよう。ドゥルーズはパラドックスについて、「それを思考のイニシャティヴと考える場合にだけ気晴らしになる」(岡田、宇波訳)と言う。さらに、「それは思考でしかありえないもの、語られることしかできないもの、それはまた表現できないもの、思考できないものでもある」とも言っている。どういうことか。要するに実在しないものをも思考は思考できるということだろう。実在しないものについては、矛盾率は適用されるいわれがないから、矛盾率に反したパラドックスにも意味はある。その意味の豊饒を楽しむところにパラドックスの存在理由があると言いたいようである。

もうすこし具体的な見方をすると次のようになる。「パラドックスは、ドクサと対立し、良識と共通感覚というドクサの二つの面と対立する」。良識は一つの意味方向を持っている。というか意味が一つに固定されている。ということは、良識は固定していて定着した配分を世界にもたらす。それは農業の営みに適している。農業こそは、固定していて定着した配分の上に成り立っているからである。「良識は農業的であって、農業問題、エンクロージャーの設定と不可分であり、所得の補償・調整がなされると考えられている中産階級の営みと不可分である」と言えるのだ。

このように述べたうえでドゥルーズは、「良識は、意味作用を規定するときに主要な役割を演じている。しかしそれは、意味を与えるときにはいかなる役割も演じていない」と言う。つまり良識は、すでに出来上がっている意味の体系の中から、ある特定の意味を発見するためにあるのであって、意味を新たに生産することはできない。意味を生産できるのは、ナンセンスでありパラドックスである、というわけである。「そうすると、パラドックスは良識とは別の方向をたどり、精神の楽しみにすぎない気まぐれによって、最も分化していないものから最も分化しているものへと進むと言うだけで十分ではなかろうか」。

こうドゥルーズが言うのは、人間には遊びの精神があってもいいではないかと考えるからであろう。遊びの精神が欠けていては、人間は窮屈な生き方しかできない。それでは生きている甲斐がない。そうドゥルーズが考えるのは、ニーチェの精神を受け継いでいるからであろう。





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