ロシア主義と外国人嫌い ドストエフスキー「未成年」を読む

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小説「未成年」には、ドストエフスキーのロシア主義的心情と外国人への嫌悪感が盛り込まれている。外国人のうちでもユダヤ人は特に醜悪な描かれ方をしている。そこでこの小説は、ドストエフスキーの反ユダヤ主義がもっとも露骨に表れているものとして受け止められてきた。また、ロシア主義については、単にロシア人の民族的特殊性を誇大に言い募るというよりは、ロシア人のコスモポリタン的な面を強調し、それをもとにロシア人の国際的な優秀性を誇示するというやり方をしている。ロシア人ほどコスモポリタンな民族はいない。そのロシア人こそが世界の手本となる資格があるというわけである。

ロシア人のコスモポリタン的な性格についてのもっとも白熱した議論が展開されるのは、第三部の第七章の中である。つまり小説の終わりに近い部分であり、それ以前に言及されてきたロシア人観を集大成するような形になっている。面白いことにそのロシア人観をヴェルシーロフが披露する。かれは息子のアルカージーに向かって、ロシア人のコスモポリタン的な一面を強調して見せるのである。まず、以下のような主張がなされる。

「フランス人が自分の祖国フランスにばかりか、広く全人類にまで仕えることができるのは、純粋にフランス人になりきるという条件の下においてのみなのだよ。同じことが~イギリス人にも、ドイツ人にも言える。ロシア人だけが、われわれの時代にすら、つまり総計がなされるはるか以前にということだが、すでに、もっともヨーロッパ人になりきるときにのみ、もっともロシア人になりきるという能力を獲得したのだよ。これこそが、わがロシア人が他のすべての民族と異なるもっとも本質的な国民的特徴で、この点についてわれわれは~世界のどこにもないものを持っているのだ」(工藤訳)。

つまりロシア人は、世界中でもっともコスモポリタン的な民族であり、コスモポリタンであることを通じてのみロシア的だというのである。この言い分の中でヨーロッパ的と言っているのが、ドストエフスキーにとってはコスモポリタン的であるということだ。なぜならヨーロッパのみが、ドストエフスキーにとっては、世界をあらわしているからである。

これは、ヨーロッパのほかの国民と比較してロシア人の長所を強調したものだ。そうした比較なしに、単にロシア的なものを扱うときには、ロシアに対して批判的になることもある。批判的というより、諦念といったほうがよいかもしれない。諦念というのは、ロシアのなさけない部分を認めざるをえないことからくる。そのなさけないものを前にしては、半ばあきらめのような気持にならざるを得ないのである。

ともあれドストエフスキーのロシア人観は、その長所と短所をないまぜにしながら、かなり入り乱れている。それについては、ドストエフスキーはアルカージー(つまり語り手)に次のように言わせている。

「たしかに、どうして人間が(それも、ロシア人は特にそうらしいが)自分の魂の中に至高の理想と限りなく醜悪な卑劣さとを、しかもまったく誠実に、同居させることができるのか、わたしには常に謎であったし、もう幾度となくあきれさせられたことである。これはロシア人のもつ度量の広さで、大をなさしめるものなのか、それともただの卑劣さにすぎないのか~これが問題である」。

以上でロシア人と言われているのは、ロシアの男たちのことだと思うが、ロシアの女たちもまた、それなりの長所と短所を持っている。これについても、ヴェルシーロフが息子のアルカージーに向かって説く。かれはアルカージーの母親を念頭に置きながら次のように言うのだ。

「ロシアの女というのは早く老ける、その美しさはつかのまのまぼろしみたいなものだ、そしてそれは、たしかに、人種的な特徴のせいばかりとはいえない、ひとつには、惜しみなく愛をあたえることができるからだよ。ロシアの女は愛したとなると、なにもかもいちどきにあたえてしまう~瞬間も、運命も、現在も、未来も。出し惜しみということを知らないし、貯えるということも考えない。そして美しさがたちまちのうちに愛する者の中に流れ去ってしまうのだ」。

以上はドストエフスキーのロシア主義の一側面を取り上げたものである。つぎに、その裏返しとしての外国人嫌いについて見てみよう。この小説の中には、数か国の出身者が出てきて、いずれも否定的に描かれているのだが、中にも否定的な描かれ方をされているのは、ユダヤ人、ドイツ人、フランス人である。ユダヤ人については、金に汚いことが強調される。ユダヤ人は金を手段にしてロシア人を迫害するいやな連中だというのが、この小説でのユダヤ人の印象である。ユダヤ人は、金に執着するばかりではない。金を得るためにはどんな汚いことでも平気でする。その代表的な例は、賭博の場でユダヤ人がアルカージーから金をちょろまかす場面である。しかも正々堂々とちょろまかすのである。そんなことをされては、どんな人間でもユダヤ人を憎まずにはいられないだろうと、ドストエフスキーは読者に呼び掛けているようである。

ドイツ人は、粗暴で暴力的な人種として描かれている。フランス人は高慢で抜け目のない人種として描かれる。アルカージーは、フランス人トゥシャールの運営する寄宿舎に入れられるのであるが、トゥシャールはアルカージーの身分の卑しさを、かれを差別する理由とする一方、アルカージーの保護者に対しては慇懃に振舞うのである。一方ドイツ人のビオリングは、カテリーナの意を受けてとはいえ、アルカージーに対して高圧的に振舞い、あまつさえ暴力を振るったりする。その暴力的な性格は、ドイツ人の民族性を体現したものだということになっているのである。






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