フランス映画「セザンヌと過ごした時間」 ゾラとセザンヌの奇妙な友情

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2016年のフランス映画「セザンヌと過ごした時間(Cézanne et moi)」は、エミール・ゾラとポール・セザンヌの奇妙な友情を描いた作品。奇妙というのは、ゾラの視点からのことで、セザンヌはゾラに対して普通に振舞っていると思っている。ところがゾラにはそう思えない、という意味だ。

というわけで、歴史上に足跡を残したこの二人の友情を、主にゾラの視点から描いたものだ。二人は南仏の町エクス・レ・バンで共に育った幼馴染だ。ゾラはイタリア人の移民で、学校ではいじめられていた。それを一つ年上のセザンヌがかばってやった。セザンヌは絵が好きで画家になりたい夢をもっていた。一方ゾラはフランス社会に溶け込み、フランス社会のことを小説で書きたいと思っていた。

成長した二人はそれぞれの道を歩む。ゾラは若くして成功し、当代一流の作家として社会的に認められる。一方セザンヌはなかなか評価してもらえない。いつまでもうだつのあがらぬセザンヌが、ゾラに向かって複雑な感情を抱き、それを行動にもあらわす。その行動は攻撃的なもので、それにゾラはうんざりさせられながらも、年が老いるまで付き合い続けるといった内容である。

ゾラは、作家として成功しただけでなく、ドレフュス事件へのかかわりとか、社会的な分野でも名声を博す。一方セザンヌは、画家として評価されないばかりか、人間としても一人前には見てもらえない。ゾラはセザンヌより先に死ぬのだが、その時点でもセザンヌはまだうだつがあがらなかった。かれの作品が世の中に受け入れられるのは、死ぬ間際だったのである。

だからこの映画の中での二人の関係は、成功したゾラとうだつの上がらないセザンヌという非対照的な関係である。子供の頃は、セザンヌがゾラを保護する立場だったが、大人になってからは、セザンヌはゾラの前に頭が上がらないのである。その分、かれはゾラに対して乱暴に振舞う。この映画の中のセザンヌには、ほとんどいいところがない。

小生はセザンヌを近代美術史上もっとも偉大な画家と思っている。それについては、メルロ=ポンティのセザンヌ論に影響されたということもあるが、しかし絵画のイメージを決定的に変えたのがセザンヌであることは違いなく、現代絵画はセザンヌから始まると言ってよい。そのセザンヌの画家としての偉大さが、この映画からは全く伝わってこない。そこがこの映画の欠点だろう。こんな映画を見せられれば、セザンヌについてとんでもない思い込みを刷り込まれるばかりだ。






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