一人称と性的言語:痴人の愛

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谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のすごさというか迫力の源泉は、その独自の言語空間ともいうべきものに由来している。谷崎はこの小説において、語り方としては一人称形式を用い、語られる内容には性的言語を多用した。そこから、主人公の主観的な意識を通じて展開されるお話の世界が、それでなくとも融通無碍な性格を帯びがちなところに、性的言語が氾濫することによって、非日常的で祝祭的な雰囲気さえ帯びるようになる。谷崎は、彼独自の言語空間をうまく活用することで、この小説の表現しようと意図するところの倒錯的な世界を、じめじめした陰鬱なものとしてではなく、明るく祝祭的なものとして描き出しているのである。

一人称の形式と言うのは、日本の近代文学においては、珍しいことではなく、むしろ普通のと言ってもよかった。私小説とよばれるジャンルの小説などは、好んで一人称を採用している。その場合の一人称の描き方は、どちらかと言うと、観念的になったり、いいわけがましくなったり、要するにじめじめした印象を与えがちであった。少なくとも、陽気な感じがする私小説と言うものは、形容矛盾といってよいほど、ありえない組合わせのように見えるのである。

ところが、谷崎はここで、一人称形式を通じて、主人公の口からお話をさせるわけなのだが、そのお話が、何とも陽気で面白いのである。祝祭的と言ってもよい。語られる事柄が、男女のセックスにまつわる事なので、余計に祝祭的になりうるわけである。

男女のセックスにも、じめじめしたものはあるし、読者を憂鬱にさせるようなものもないわけではないが、セックスとは本来そんなものではなく、祝祭的で人の心を高ぶらせるものなのだ、ということを、谷崎はよくわきまえているのであろう。

ところで、一人称形式には、短所もあれば長所もある。短所の最たるものは、言説に客観性を付与することが難しい点だ。したがって、大河小説のような結構の壮大なものは、一人称にはなじまない。逆に長所とすべきものは、主観的な観念の世界を描き出すのに威力を発揮することだ。実際、一人称小説と言うものは、個人の視点から見た世間を描いているわけであるから、視点にはブレができず、しかも観念の細かいひだまで描き出すのに優れている。

日本の私小説とよばれるものは、一人称の持つ短所を避け、長所を生かそうとつとめたわけであるが。谷崎の場合には、短所も長所も、両方とも盛り込もうとした。つまり、視点は単一で、したがって主人公の主観的な意識を反映したものでありながら、主人公の語ることは、主観的な妄想などではなく、客観的な出来事なのだと、読者に思わせようとする。そこから、ユーモアのようなものが生まれる。

というのも、主人公の意識における主観的なものと、彼を囲む客観的な世界とがずれているのに、主人公はそのずれを意識できない、自分はあくまでも客観的な世界で客観的に生じたことをごく客観的に語っているのだと言う態度を取っている。しかし主人公の主観的な意識と彼が客観的と考える事態の間には大きなずれが存在するのだ。そのずれが、ユーモアを呼び起こすわけである。

たとえば、主人公がナオミによって騙されていることを、主人公は知らない。主人公が知らないのであるから、主人公から話を聞かされる立場の読者も当然知らない。ところが、主人公の語る話そのものは、現実の事態を踏まえているわけであるから、そこには主人公は明示的には知らないまでも、実は直美が騙していることを暗示するような言説が現れる。つまり、主人公の意識の主観性と事実の持つ客観性とが、ここでは分裂するわけである。その分裂、つまりズレがユーモアを生むのである。谷崎はこのユーモアを大事にしている。

性的言語は、直美の言葉遣いの中に現れている。この小説の開始時点でのナオミはまだ15歳の少女だが、彼女ははじめから少女らしくない言葉をしゃべっている。

「譲治さん、今日はビフテキをたべさせてよ」
「ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るような女になるわ」

この時代の15歳の少女なら、「あたしビフテキ食べたい」とか「ちゃんと勉強する」というところだ。それなのに、こんな持って回った云い方を、谷崎はこの少女にさせている。

こうした言葉遣いは、日本語学者の中村桃子女史が「てよだわ」ことばと名づけたものだ。明治時代に女学生を中心に使われ始めたのだったが、それを文学者が好んでとりあげ、作中の女たちに使わせたことばだったという。それも主に性的なコンテクストの中で、このことばを多用した。漱石も「それから」の中で女性主人公の美千代に一度だけこの言葉をつかわせているが、それは、大助から愛を告白されたシーンでだった。こんなところからわかるように、こうした言葉遣いは性的なイメージを伴っていたわけである。谷崎はそんな言葉づかいでもって、あからさまな性的イメージを想起させるような会話を、主人公たちにさせているのである。

たとえば、主人公とナオミがトランプをする。ナオミは主人公の気をそらせようとして、性的な仕草をする。主人公が、そんな手はないといって、ずるいやりかたを責めると、ナオミは、次のように言って、反撃する。

「ふん、ないことがあるもんか、女と男が勝負事をすりゃ、いろんなおまじなひをするもんだわ。あたし余所で見たことがあるわ。子どもの時分に、内で姉さんが男の人とお花をする時、傍で見てゐたらいろんなおまじなひをやってゐたわ。トランプだってお花と同じじゃないの」

こんな具合で、谷崎の性的なものに対するこだわりは尋常ではない。それがこの小説に一貫性のようなものを付与する原動力になっていることは間違いない。

主人公の意識のなかの主観性と、事態の客観性との間の亀裂は、小説のいたるところで現れる。そうしたシーンの中でも、男たちが初めてやって来て泊り、一つの部屋の中で雑魚寝するシーンは心憎い場面である。三人の男と一つ部屋に泊ったナオミは、男たちを相手にさんざん性的な遊びに耽ったあげく、主人公の寝ている隙をみはからって、別の男とキスしたりする。そんなことには全く気付いていない主人公は、朝目が覚めるとナオミの寝顔を見ながら、次のように思うのだ。

「ナオミちゃん・・・・と、私はみんなの静かな寝息をうかがひながら、口のうちでそういって、私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああ、この足、このすやすやと眠ってゐる真っ白な美しい足、これはたしかに己の物だ、己はこの足を、彼女が小娘の時分から、毎晩毎晩お湯へ入れてシャボンで洗ってやったのだ、そしてまあこの皮膚の柔らかさは、~15の歳から彼女の体は、ずんずん伸びていったけれど、この足だけはまるで発達しないかのやうに依然として小さく可愛い。さうだ、この親指もあの時の通りだ。小指の形も、踵の円みも、ふくれた甲の肉の盛り上がりも,総てあの時の通りじゃないか。・・・私は覚えず、その足の甲へそうっと自分の唇をつけずには居られませんでした」

谷崎はまた、古典を引用して、性的なイメージに花を添えることも忘れない。主人公との戦いに勝利して、主人公を奴隷の境遇に追いやったナオミは、主人公からキスを求められると、はあっと息を吹きかけることで、我慢させようとする。主人公はキスがしたくてたまらないのだが、たとえキスができなくても、ナオミの息に触れるだけでもうれしくなる。というのも、ナオミの息にはまなめかしい香りが立っているからだ。

「彼女の息は湿り気を帯びて生暖かく、人間の肺から出たとは思へない、甘い花のやうな香がします。~彼女は私を迷わせるために、そっと唇に香水を塗ってゐたのださうですが、さういふ仕掛けがしてあることを無論その頃は知りませんでした。~私はかう、彼女のやうな妖婦になると、内臓までも普通の女と違ってゐるのじゃないかしらん、だから彼女の体内を通って、その口腔に含まれた空気は、こんななまめかしい匂いがするのじゃないかしらん、と、よくさう思ひ思ひしました」

このシーンはいうまでもなく、平中の故事を踏まえている。遠い昔の物狂いの物語を谷崎は20世紀の日本に復活させたわけである。色事には時空を突き破る力があるとでも、いいたげなように。


関連サイト:日本文学覚書 





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