
月岡芳年と言えば「血みどろ絵」が思い浮かぶほど、血なまぐさい絵が好きだったように思われるが、芳年がこうした絵を描いたのは、慶応元年から明治二年までの五年間に過ぎない。それには、こうした絵を求める時代の背景があったと考えられる。すなわち幕末・維新にかけて、血なまぐさい事件が頻発したために、その事件の真相とともに、事件をいろどった血なまぐさい行為に、庶民の関心が向いたという事情があったわけだ。
芳年が血みどろ絵を手が手がけた最初は、慶応元年の「近世狭義伝」あたりからだが、本格的なものは、明治二年から三年にかけて刊行された「英名二十八衆句」である。これは兄弟子の落合芳機との共作で、ともに十四点ずつ二十八点からなる。いずれも俳句を書いた短冊を添え、それに浄瑠璃や歌舞伎からとった文句を記している。
こういう内容の連作ものは師匠の国芳が弘化四年に「鏗鏘手練鍛の名刄」で行っていた。彼らはそれを踏襲しながら、血なまぐさい場面を更に強調することで、同時代の血なまぐさい風潮を表現したというわけだ。
これは「稲田九郎新助」と題したもの。「稲田九郎」は歌舞伎の稲葉小僧をもとにしたと思われるが、稲葉小僧は義賊であって、このような凄惨な行為とは縁がない。
(慶応三年<1867> 大判)
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