日本の死刑制度は野蛮か?:オウムの死刑執行によせて

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オウム関連の死刑囚十三人のうち、教祖麻原彰晃こと松本智津夫はじめ七人に死刑が執行された。このことは海外にも大きな反響を呼び、日本の死刑執行制度に批判の声もあがっているようだ。批判の論拠は、死刑は残酷な制度であり、前時代の野蛮さを引きずっているものであるから、文明化された国においては認められるものではない、というものだ。実際いまどき死刑を執行している国は、日本とアメリカの一部の州に過ぎないのだから、日本がいかに野蛮な国であるかを物語っている。日本人が西洋並みに文明人と思われたいのなら、死刑などという野蛮な制度は即刻やめるべきだ、というのが大方の論調である。

一方、日本人自身は、死刑の執行に賛成するものが80パーセントを越えている、という事情もある。他の文明国が死刑をやめたからといって、日本もそれに倣ってやめるいわれはないと、大方の日本人は思っているわけだ。

日本人がこう思うには、それなりの歴史的な背景がある。徳川時代までは、親族を殺されたものは、殺した相手に復讐する権利をもっていた。特に親を殺されたような場合には、殺した相手に復讐することは、権利と言うより義務に近い感覚で受け取られていた。それを明治政府が、復讐の権利を取り上げて、殺人などの凶悪事件については、国が殺された側にかわって殺した者に鉄槌を加えるというふうに改められた。その「鉄槌」には、殺した相手に、自分の命を以て自分の罪を償うという意味が持たされていた。

要するに、日本の死刑制度は、歴史的には、親族を殺されたものの、殺した相手に対する復讐の権利を取り上げることと引き換えに導入されてという経緯がある。そんなわけで日本人は今でも、その復讐に見合う行為を国がとることを期待しているのであり、国がその期待を踏みにじって、死刑をやめるなどとは、約束違反だと受け取るわけである。もし国が約束違反をするなら、自分たちは復讐する権利を保留するということになりかねない。

こういう心情こそが野蛮人である証なのだ、と日本の死刑制度を批判するものは言うかもしれない。だが、野蛮であるとか、文明的であるとかは、人間の生き方の根本にかかわることではない。人間は野蛮でありながら幸福でありうるし、文明的でありながら生きる上での窮屈を感じることもある。だから、ヨーロッパ人の一律的な基準を以て日本人の生き方を規制しようというのは、土台無理な話だ。

日本と同様死刑執行制度を保存しているアメリカの一部の州については、保存の理由は日本とは大分違うようだ。アメリカは国家の司法権が日本ほど強くないという歴史的経緯があるし、それとのからみで最近まではいわゆるリンチが公然とまかり通って来た。さすがにリンチは今の世の中では誰も認める者がいないので、禁止されることとなったわけだが、禁止されてたまることとなったフラストレーションを、かつてならリンチの対象であったものを国家が死刑にすることで代償しようとしてきた歴史がある。

つまり、日本では私的な復讐の代償として始まった国家権力による死刑執行は、アメリカでは私的制裁=リンチの代償としての意味を持たされているわけだ。

そこで、日本とアメリカの一部の州と、どちらが先に死刑制度やめるようになるかといえば、どうやら日本のほうが、なかなかやめられないようである。





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