東京画:ヴィム・ヴェンダースの小津安二郎礼賛

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ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー風の映画「東京画(Tokyo-Ga)」は、小津安二郎へのオマージュといってよい。同じような趣旨の映画は、溝口健二へのオマージュである新藤兼人の作品があるが、新藤の映画が溝口の半生を描いた伝記的なものだったのに対して、これは小津の映画作りの魅力について語ったものだ。その魅力を語るためにヴェンダースは二人の人物を登場させて、小津への敬愛を語らせる。

一人は俳優の笠智衆、もう一人はカメラマンの厚田雄春だ。笠智衆は下手な役者である自分を小津が根気よく使ってくれたことに、人間的な側面を感じ、尊敬の念をあらわしているし、厚田雄春は、主に技術的な面から小津の映画作りの魅力について語っている。特に厚田の話には、小津の映画作りの秘訣のようなものが窺われて、参考になるところが多い。一方、笠智衆は自分の小津への敬愛を示すかのように、鎌倉の寺へ小津の墓参りをするシーンが出て来るが、墓標に「無」という一文字が書かれていることをめぐって、ヴェンダースはちょっとした哲学論議を披露している。日本人には「無」は親しみのある言葉かもしれぬが、ドイツ人である自分にはそれは空虚以外の何物でもないというのだ。

そのドイツ人のヴェンダースが作ったドイツ映画であるにかかわらず、映画の中のナレーションは、なぜかフランス語である。ドイツ語はほとんど出てこない。わずかに映画の中に登場した同業のヘルツォークが、インタビューに答える場面に出て来るだけである。

ヴェンダース自身が小津について言っていることと言えば、小津の映画には人間について、とりわけ自分自身について、深く考えさせるところがあるというものだ。人間について考えさせるからこそ、小津の映画は普遍的な価値を帯びることができたというのだ。また、小津の映画が醸し出す映像には、やさしさと秩序があるとも言っている。そうしたものが今の映画には欠けているということか。

やさしさと秩序は、映画の世界ばかりでなく、現実の世界からも失われつつあると、ヴェンダースは言いたいかのように、小津の映画の中の世界を現実の今の世界と対比させている。今の世界とは、ヴェンダースがこの映画を作るために訪れた1980年代の東京だ。その頃の東京を、人の表情を含めて、かなりマニアックな視線で紹介している。それを見ると、当時の日本と日本人とが、いかに浮かれていたかが伝わって来る。

当時の日本が浮かれていたにはわけがある。その頃の日本はバブルの前哨期で、国全体が浮かれていたというか、軽佻浮薄の気風が蔓延していた。そんな軽重浮薄の日本人が画面いっぱいに写し出されるのを見ると、これは文明化された野蛮人ではないかと思いたくなるくらいだ。だからといって、ヴェンダースが日本人嫌いかというと、そうでもないらしい。かれが日本人嫌いなら、日本人である小津を好きになるはずがない。ただ、小津の生きた頃の日本を基準にすると、今の日本は堕落しすぎていると言いたいのかもしれない。

ヴェンダースは今の日本でも立派に生きているものとして、職人技を取り上げて紹介している(食品の見本作り)。それを見るヴェンダースの視線はかなりマニアックだ。ヴェンダースはその職人技に、小津の映画作りと共通するものを見たのだろう。とことんまで細部にこだわり、絶対に手を抜かない。そのこだわりが日本の職人技を支えているわけだが、そういうこだわりは、ドイツ人にもあるようだ。そこがヴェンダースを、日本の職人技に共感させるのだろう。

ところで、小津を敬愛するものとして、ヴェンダースは自分の映画作りに小津をどのように生かしているのだろうか。筆者は二・三の作品を見ただけだが、それから感じたことは、物語性に拘らず、日常的な生活の一こまを丹念に描き出すこととか、時間の流れがゆったりとしていることなどに、小津の影響がうかがわれるということだ。技術的にも、ロングショットの長回しなどは、小津から学んだものだろう。






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