生きることに飽きる?

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瀬戸内寂聴尼は今年九十六になり、あと二か月もすると九十七になるのだそうだ。そこで自分がその年まで生きてきたことをうれしいかというと、そうでもないらしい。特に年をとってからは、生きていることが必ずしもうれしくはないらしい。そのように思うのは、自分の命がこの世のために役に立たなくなったと感じる時だそうだ。そういう時には、「まだ、だらだらと生き続けて役にも立たなくなった自分の命を持て余しているような気もする」のだそうだ。

もっともそんなふうに思うばかりでもないらしい。時には生きていてよかったと感じることもあるようなのだ。それは、自分が人のためにいくばくかの役に立っていると感じる時で、たとえば、寂庵での法話を聞きに来てくれた人が、来てよかった、逢えてよかったといって喜んでくれる時だ。そういうと時には、なにがしか人の役に立ったと思われて、「まだ生きていてよかったのかな」と少しばかり心が軽くなるのだそうだ。

九十六にもなると、人間としてしたいと思うことは一通りすることができた。「行きたいところへは、大方行った。着たいものはほとんど着てしまった。食べたいものも大方食べた」。だから、結構な人生だったと思うそうである。そう思うというのは、ある種の飽食のことを意味するのだろうか。もう十分に生きてしまったから、これ以上生きなくともよい。何故なら、私は生きることに飽きてしまったからだ、ということだろうか。

小生はまだまだ生き方が足りないせいだろうか、そんなふうに思ったことはまだ一度もない。むしろ生き方がまだまだ足りないと思っているくらいである。行きたいところはまだあるし、着たい物もまだある。食べたいものだって、いくらでもある。なにしろ欲望に弱いたちなのである。欲望に弱いというよりは、生きることに執着が強いということだろうか。生きることに飽きるなどということは、小生には考えられない。

ところが寂聴尼は、「ペンを持ったまま、原稿用紙の上に顔を伏せて死にたいとばかり念願している」のだそうだ。要するに、燃え尽きるようにして死んでいきたいということだろう。枯れるようにではなく、燃え尽きるようにというのがミソだ。原稿用紙にペンを走らせるというのは、尼なりに命を燃焼させているということだろう。その燃焼の炎に包まれるようにして死ぬというのは、命が尽きたというよりは、命の余剰として死を迎えたということではないだろうか。尼にとって死は命の停止ではなく、余剰なのだ。

余剰であるから、尼は死後もまたその余剰を生きることになるのだろう。というのも尼は、死んだ後であの世に行けば、先に死んだ人に逢えるでしょうかと聞かれて、逢えますとも、と答えるというのだ。つまり尼は、あの世の存在を当然のこととし、死後自分がそこで生き続けることを疑わないのである。命の余剰というのはそういうことなのだろう。

ところで小生は、あの世の存在については懐疑的である。小生は、存在するものとは、小生にとって現前化するものであって、現前化することのないものが存在するとは思えないからだ。小生はすでに古希の年を迎えたが、この年になるまで、あの世とやらを目撃したことがない。この年になるまで見たことがないものを、これから先、見られるだろうとは思えない。あの世は死んで初めて見られるのだから、生きている間に見られないのは当然のことだと人は言うかもしれない。しかし、自分が死んでしまった後のことについて語った人は一人もいない。ということは、死んだ後の世界の存在を証明するものはないということだ。

こんなことを言うと、寂聴尼から憐れがられるかもしれない。あなたは心貧しい人だと言われるかもしれない。あの世とは、かならずしも現実の存在をいうのではない。あの世とは、希望をさして言うのだ。人間は希望を持たなければ生きられないと同じように、希望がなければ安心して死んでいくこともできない。あの世とはだから、安心して死んでいくための、死に方の支えのようなものなのだ。

寂聴尼ならそんなふうに言って、生きることと死ぬこととの間に深い断絶をもちこむようなことはしないのだろう。死は生と断絶しているのではなく、ある意味連続している。生、つまり命の余剰として死はあるのだ。だから死ぬことについても感謝しなければならない。感謝の気持ちを以て安らかに死んでいくこと、それが人間にとって最高のことではないのか。そんなふうに激励されそうな気がする。





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