レヴィナスにおける女性的なもの

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レヴィナスの<他者>は顔として現われる。それはとりあえずは性別をもたない人間の顔として現われる場合もあるが、神として現われる場合もあるようである。<他者>の絶対的な超越性が、神を連想させるからである。レヴィナス自身は、<他者>を神とは明言していないが、文章の行間からそのように伝わって来る。<他者>はまた女性である場合も当然ある。しかし女性として現われる場合には、<他者>は特別の様相を呈する。それは単なる顔であることにはとどまらない。そこには「顔における<他者>の顕現を前提するとともに、それを超越しているなんらかの次元」がある(「全体性と無限」熊野純彦訳、以下同じ)。そうレヴィナスはいって、女性としての他者の解明に踏み込んでいく。

女性にともなう特別の<次元>とは、「愛と多産性の次元」だとレヴィナスはいう。女性は、エロス的なものを共有できる愛のパートナーであり、また子をもたらしてくれることで多産性の源でもある。女性は男性との間で愛を育み、そのことを通じて子を産んでくれるのだ。誰のために。無論、男性である<私>のためにである。こんなわけで女性的なものをめぐるレヴィナスの議論は徹底的に男性の立場から展開される。あたかも哲学は男性の立場からのみ展開されるのであって、女性は哲学を語る主体ではなく、語られる対象にすぎないとでもいうかのように。

<私>と女性との関係をめぐるレヴィナスの議論はある意味陳腐なものである。女性は男性である私との間でエロス的で官能的な関係を結ぶということにつきる。官能的な関係にあっては、<他者>である女性は、単に顔としてだけではなく、身体としても私と関係しあう。官能とは身体で享受するものだからだ。男性である<私>は、女性とのあいだで身体を通じてかかわりあう。つまり接触しあう。それはまさに直接的な接触であり、しかも<他者>との超越を介した接触でもある。

レヴィナスは言う。「<他者>がその他性を維持しながら欲求の対象としてあらわれる可能性、さらには他性を享受する可能性、語りのてまえとかなたとに同時に身を置く可能性、対話者に到達するとともに対話者を踏み越えるこの位置、欲求と渇望、官能と超越とのこの同時性、あかしうるものとあかしえないものとのこの接触、ここにエロス的なものの独特なありかたがある。エロス的なものとは、その意味で際だってあいまいなものなのである」

「あいまい」というのは、エロス的なもの、つまり官能が言語では表現できないということだろうか。その官能は愛撫によって刺激される。女性とのエロス的で官能的な接触は愛撫を通じておこなわれるのである。ここからして女性との間の関係についてのレヴィナスの議論は、男性による女性への愛撫を中心にして展開される。以下のような文章が続く。

「愛撫は探しもとめ、発掘する。愛撫とは開示する志向性ではなく、探しもとめる指向性である。愛撫とは見えないものへの歩みなのである」

「愛撫が目ざすのは、『存在者』の身分をもはや有していないような柔らかさである」

「官能は渇望を満たしにくるものではなく、この渇望そのものである。だからこそ官能はただ性急なものであるばかりでなく、性急さそれ自体なのである」

愛撫を通じての女性との関係にあって、女性が<顔>であることにとどまりえないことは必然だろう。愛撫は官能をめざすのであり、その官能は感受性によって受肉されるのであってみれば、身体全体を通じて享受されねばならないからである。そこでレヴィナスは、大胆にも次のようにいうのである。

「愛される女性の顔が表出するものは、表出することの拒否にほかならない・・・その意味で官能は純粋な体験であり、どのような概念にも流れこむことのない体験なのであって、ひたすらに体験でありつづける」

これは、<他者>は顔として現われるとするレヴィナスの根本的な前提からすれば逸脱のようにも聞こえる。しかしレヴィナスはその逸脱を気にしていないようだ。レヴィナスにとって「顔」としてあらわれる<他者>は究極的には神に収斂すべきものであって、女性についてはまたそれとは次元を異にすべきものだと考えているように思える。女性は神にはなりえない。だから顔にこだわらなくともよい、どうもそのように考えているフシがある。

レヴィナスはまた、<他者>との関係は倫理的な関係であり、従って社会的な関係だともいっていた。ところが女性との関係は、そうした次元からも逸脱する。レヴィナスは次のようにいう。

「官能において恋人たちのあいだで確立される関係は、普遍化に対して根底からあらがうものであり、社会的な関係のまさに対極にあるものである。恋人たちの関係からは第三者が排除される。それは親密さ、ふたりだけの孤独、閉じた社会、際だって非公共的なものでありつづける。女性的なものこそが<他者>であり、社会にあらがうのであって、ふたりの社会、親密な社会、ことばなき社会のメンバーである」

つまり、女性との関係は、二人だけの親密な関係であって、あらゆる第三者を排除した非社会的な関係というのである。ここでもまた、レヴィナスが<他者>に与えて来た規定性からの逸脱があるように見える。レヴィナスは「女性的なものこそが<他者>である」といってはいるが、その他者という言葉に、倫理的・社会的なニュアンスは含まれていない。女性との関係はあくまでもエロス的な関係なのであって、そのエロス的とは社会的と正反対の規定性なのだ。

レヴィナスにとって女性は、官能的な享受を与えてくれるばかりでない。女性はまた子を与えてくれる。女性との間のエロス的な関係は、その果実として子を生むのである。その子は、レヴィナスにとっては、常識的な意味での子であるにとどまらない。レヴィナスはいう。「私の子は異邦人である。けれども、この異邦人である私の子は、たんに私のものであるばかりではない。私の子は私であるからである」

どうしてそう言えるのか。レヴィナスは、私は私として死に絶えてしまうのではなく、子を通じて生きかえるのだと言いたいようである。私と私の子は、別の存在として断絶しているのではない。一つの命を共有する存在なのだ。あるいは、私と私の子は別の存在ではない、存在という概念の個別の様相として現われているに過ぎない。そうレヴィナスは主張しているように聞こえる。もしそうだとしたら、レヴィナスはあれほど批判していたヘーゲルの理屈と同じようなことを言っていることになる。

レヴィナスは言う。「存在は多元的なものとして、<同>と<他>に分割されたものとして生起する。このことが、存在の究極的な構造なのである。存在とは社会性であり、それゆえ時間である」

つまり、私と私の子(息子である)とは、存在が<同>と<他>に別れて生起したものにすぎず、その意味では、もともと同じものなのだと言いたいわけであろう。そうまでしてレヴィナスが、父と子の連続性にこだわるのはどういうわけか。それ自体が興味をそそるテーマだ。






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