祭りの準備:黒木和雄

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黒木和雄の1975年の映画「祭りの準備」は、四国のある寒村を舞台にしたある種の青春物語である。二十歳くらいの青年を中心にして、そのまわりに暮らす人々の生き方を描いたものだが、映画に出て来る人々はみな貧困ながらも、それぞれ自分らしい生き方をしている。そんななかで、脚本家をめざす主人公の青年も、色々な試行錯誤を経て、自分の夢の実現に向かって羽ばたいていくというもので、いささかゆるい筋書きだが、俳優たちの演技がなかなか見せるものなので、映画としては一応締まった出来になっている。

映画の舞台となった寒村とは、四万十川の河口付近にある。そこらあたりは中村市の一部で、中村といえば幸徳秋水の出たところだ。映画のなかでも、幸徳秋水の名が触れられる。町にオルグに来た左翼の男が、町の青年たちを相手に語り掛ける場面で、君たちは幸徳秋水の後輩なのだから、社会の改革のための闘いに立ちあがれねばならないと言って激励する。激励されて奮発する若い女は、主人公のタテオと幼馴染なのだ。

彼らの外に、タテオ(江藤潤)の母親と祖父(浜村純)、家出中の父親(ハナ肇)、タテオが親しくしている近所の青年トシやん(原田芳雄)、その兄夫婦と母親、そして大阪からヒロポン中毒のため頭がおかしくなって戻って来た妹などが出て来る。その他にも、タテオの父親が手をつけた女達とか、貧しい暮らしをしている人々が大勢出て来る。実際この映画に出て来る人たちは、彼らが暮らしている町ともども貧困の見本みたいな有様を呈しているのだ。

その貧困のなかで、主人公のタテオが、信用組合につとめながら脚本家になることをめざしている。彼の目標は新藤兼人だ。新藤の言葉に「誰でも一本は脚本が書ける、それは自分自身の人生を脚本にすることだ」という言葉を参考にしながら、自分は一本限りではなく、何本も書けるプロの脚本家になりたいと考えている。

そんなタテオを、トシやんがなにかと面倒を見る。近所同士の誼という以外には、彼らの腐れ縁の理由にはなにも見当たらない。トシやんの家族は崩壊していて、兄は窃盗の疑いで刑務所にぶち込まれてしまうし、妹は頭がおかしくなって帰ってくるのだ。その妹は、村の誰彼になくセックスをさせるし、その挙句に妊娠してしまう。その子は俺のはらました子だと早合点したタテオの祖父が、老いらくの恋よろしく子どもの父親を気取るのだが、出産をきっかけにして頭が正常にもどった妹は、祖父を恐れ避ける始末。絶望した祖父は首を吊って死んでしまうのだ。

一方、トシやんのほうは、兄が刑務所に入れられたのをさいわいとばかり、兄嫁をセックスの相手にする。兄嫁もそれを受け入れるといった具合で、倫理感もなにもあったものではない。しかもトシやんは、遊ぶ金欲しさに強盗殺人を働き、警察に追われる身となる。その強盗殺人とは、タテオと一緒に中村の街をうろついていた時に犯したのだった。

タテオは、幼馴染の娘(竹下景子)から思いをかけられ、セックス迄せまられるが、たまたま信用組合で宿直をしている時に、逆夜這いにやって来た竹下と寝ている最中、宿直していた部屋を火事にしてしまう。それがもとで信用組合をクビになってしまうのだ。そうなっては、もはや四国の片隅でくすぶっている理由はない。タテオは単身背広に身を包んで、母親の愛を振り切って東京へ旅立つというわけである。

そんなわけで、何ということもない筋書きなのだが、青春群像とそれを演じる俳優たちの演技に張りがあって、見ていて飽きない作品である。原田芳雄の演技は、彼なりの冴えを感じさせるが、意外なのは竹下景子だ。竹下景子といえば、清純さを売り物にして、特に男の映画ファンには根強い人気を誇ったもので、裸のイメージとは程遠いのだが、この映画の中では、豊満な体つきを披露している。頭のおかしな妹を演じた桂木梨江も豊満な体つきだが、竹下はそれに劣らない。

タテオが脚本家を夢見るということから、映画はかれの脚本の内容が、現実と交差するように現前してくる。それに加えて彼の夢がもつれ合って、映画は、どれが現実で、どれが脚本で、どれが夢か、区別がつかないほど錯綜している。たとえば、母親が仕立て屋とセックスするところなどは、おそらく夢なのだろうが、それが現実と区別がつかないように描かれている。子どもが母親の浮気の現場を見せられるのは、いずれにしてもショッキングなことだ。そういうショッキングというか、不道徳なところがこの映画には色濃くある。それは土佐の土地柄なのかも知れないが。この映画の原作者中島丈博は京都の生まれだが、土佐の中村で育ったのだという。







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