死に先立つ苦痛について:大江健三郎を読む

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「河馬に噛まれる」を構成する作品群のうち「死に先立つ苦痛について」は他の作品からは孤立した印象を与えるが、しかしまったく場違いとはいえない。というのもこのやや長めの短編は、「河馬に噛まれる」が全体としてテーマにしている連合赤軍事件を、凝縮して表現しているところがあるからだ。いわば、全体としての「河馬に噛まれる」のミニチュア版といったところなのだ。

この作品は、連合赤軍事件のうちでも、リンチ殺人に大きなウェイトを持たせている。この短編のなかでのリンチ殺人は、集団の指導者に反旗を翻した人物を、指導者が中心になって殺すというものだが、その殺し方が一風変わっている。タケチャンと呼ばれている指導者は、キイッチャンという青年を、できるだけ苦痛がないように死なせてやりたいと思うのだ。タケチャンとしては、自分自身が肉体の苦痛に耐えられない。その耐えられない苦痛を他人が受けることにも拒絶反応を示すようにできている。だから自分が手を染める殺人にあたっては、当の相手が苦痛を感じずにすむようにとりはからってやりたい。そう思うのである。

「死に先立つ苦痛について」という表題は、小説よりもエッセーかなにかにふさわしいと思えるのだが、小説全体が「死に先立つ苦痛について」の考察からなっていることを思えば、これ以外にふさわしい題名があるとも思えないのだ。

ともあれタケチャンが編み出した方法というのは、足に錘をつけたうえで、ベランダの梁かなにかにロープを吊るし、そのロープの端にキイッチャンの首を結わえ付けて、放り出すというものだった。こうすればキイッチャンは、窒息ではなく首の骨が折れることで瞬間的に、いささかの苦痛を感じずに死ねるはずなのであった。もっとも実際には、放り出された体の衝撃で装置が破壊され、キイッチャンは即死することができなかった。死に損なったキイッチャンは、死に先立って途方もない苦痛を味わわねばならなかったのである。

首を吊って人を殺すには科学的な方法がある。それは米国軍人アイゼンハワーが軍事用に開発したものだが、民生用にも十分活用できる。その方法とは、吊るされる人間の身長と同じ高さを落下させるように吊るすことで、こうすれば吊るされた人間は苦痛を味わうゆとりもなく、瞬間的に、しかも確実に死ねるという。この方法は今や死刑制度を採用している国々の司法当局では常識となっているはずだが、大江はそのことを知らなかったのだろう。無理な方法で吊るすというような誤謬を小説のなかで犯したわけである。

ところで、キイッチャンを殺してまでタケチャンが守り遂げようとした目的とは何だったのか。それは確実に到来すると知った自分自身の死を、有意義にしかも苦痛のない方法で成就したいという願望であった。タケチャンは不治の病である癌に自分がかかったと固く信じ、しかも余命いくばくもないと悟ったのだったが、そのいくばくもない余命が続く間に、世の中をあっとさせるテロを起し、その後は安楽死に近い死に方をしたい。そう思うようになったのだ。そのテロというのは、タケチャンとは長い付き合いがあり、しかも恩人ともいうべきこの小説の語り手を含めた数人の文化人を人質にとって飛行機をハイジャックし、その飛行機を使って、南洋の原住民たちの間で信じられているカーゴカルト運動を実現してやりたいという動機に支えられていた。タケチャンはこの運動の目標を自分が実現したあとに、乗っ取った飛行機で単身自爆するつもりなのだった。そうすれば、「死に先立つ苦痛について」思い煩うこともなく、安楽に死んでいけるはずなのだ。

もっとも現実には、この計画の実現に先立って、集団の仲間からそそのかされたかたちでタケチャンは病院に入ることとなり、そこで散々いじり回された挙句に、衰弱して死んでしまうのである。その死にざまを登場人物のひとりで、タケチャンを敬愛しているふうの畠中さんという女性が、次のように言って哀悼の意を表するのである。

「タケチャンは『武闘計画』が失敗して、キイッチャンの死もなにもすべてむだになってから、も一度、自分を殺す癌の苦痛と恐怖にかさねて、本当に苦しんで怖れて、どんな小さな希望もなしに、負け犬の恥辱のなかで死んだのだと思います・・・」

そんなわけでタケチャンは、「死に先立つ苦痛について」二重に、というのはキイッチャンの苦痛に満ちた死と自分自身の死を重ねてという意味だが、その二重の苦しみを味わわねばならなかった。これほど恐ろしいことがあるだろうか。ところが小説の語り手であるO、つまり大江は、「おれも自前で、たっぷり味わって死ぬことになるのだろう」というのである。そういうことで大江は、人間にとって本当につらいのは、死そのものではなく、「死に先立つ苦痛について」なのだと言いたいわけであろう。






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