イロニーについて

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イロニーは非常に幅広い内容をもった概念であり、さまざまな意味合いに使われてきた。それを大雑把に分類すると、哲学的な意味合いと文学的な意味合いとに区分できる。この二つの意味合いでのイロニーという言葉は、ギリシャ時代から使われて来た。哲学的なイロニー概念はソクラテスにおいて、文学的なイロニー概念はソポクレスを頂点としたギリシャ悲劇において、それぞれ典型的な形で展開された。

ソクラテスにおけるイロニー概念は、ソクラテスのいわば産婆術の一環として使われた。ソクラテスは、相手に無知をさとらせるために、相手の提出した言説に対して、それに全く相反する言説をぶつけることで、相手の言説の主張する内容を相対化した。その時にソクラテスは、自分自身が無知を装ってそのようなことをした。この無知を装った反論は、あたかも皮肉のように聞こえたことから、ソクラテスのイロニーは皮肉の技術というふうに受け取られて来た。その皮肉は、とりあえずはある言説に対して否定的に働くことから、イロニーは、哲学的には、否定性の概念であると受け取られてきたのである。こうした考えは、ヘーゲルによって、大規模な形で実を結んだ。ヘーゲルは、イロニーを否定性の概念として、彼の弁証法の不可欠の要素として取り込んだのである。弁証法とは否定性の哲学といえるのだが、その否定性をイロニーが体現することとなったわけである。

こうしたヘーゲルのやり方をさらにひっくりかえしたのがキルケゴールである。キルケゴールには「イロニーの概念」という題名の学位論文があり、その中でイロニーのもつ積極的な意義について考察している。哲学的なイロニーは、ソクラテスにあっては、言説の相対化を通じてより高度の認識に到るため技法であるとされ、その特徴は皮肉という形で、否定性を持ち込むことにあった。そこではイロニーのもつ否定性は、より高度な知に達するための方便として用いられたわけである。そうした方便としてのイロニーの否定性を、単に認識上の方便に終わらせず、よく生きるための不可欠の条件と考えたのがキルケゴールだった。キルケゴールにとって、人間の本来の生き方は、個々人が直接神と向きあうような生き方だったわけだが、そういう生き方にたどり着くには、今自分自身が生きているその生き方を全面的に否定しなければならなかった。イロニーは、その全面的な否定としての意義を、キルケゴールによって持たされたのである。それゆえキルケゴールにとってのイロニーは、単に認識にかかわる事柄ではなく、生き方にかかわる事柄だったのである。人間はイロニーを通じて、今自分が生きているその生き方を全面的に否定し、自分本来の生き方を見つけねばならない。その生き方とは、先ほど触れたように、個々人が直接神と向きあうような生き方だったのである。

以上、哲学的な概念としてのイロニーは、認識のレベルにおいてにせよ、生き方のレベルにおいてにせよ、否定性として捉えられて来た。それに対して文学的な概念としてのイロニーは、個人とかれが属する共同体との関係にかかわらせて捉えられて来た。文学的なイロニー概念を最初に提起したのは、ソポクレスを頂点とするギリシャ悲劇であるが、そのギリシャ悲劇においては、イロニーは個人が運命によって翻弄されるありさまを主にあらわしていた。ここでは話を分かりやすくするために、ソポクレスの「オイディプス王」を素材にして、ギリシャ悲劇におけるイロニーについて見てみたい。

ソポクレスの「オイディプス王」は、オイディプスを運命に翻弄されるものとして、自分自身の意思に尽く反して、それと正反対の立場に追われるものとして描いているが、そうしたオイディプスの姿は、イロニーの化身のように映る。まずかれは、父親殺しをするだろうという予言を回避するために羊飼いにあずけられるのであるが、結果的には父親を殺す羽目になる、その父親殺しについては、オイディプスは(実の父だと思っていた)自分の育ての親を殺すことを避けたはずが、本当の父親を殺すことになったのであり、またその妻で自分の母親である女性を、それと知らずに妻とするのである。そのオイディプスがテーバイの王となって以来、テーバイは災難に見舞われつづきになった。その理由を知ろうとしてデルポイの神殿にお伺いを立てた所、それは前王ライオス殺害のたたりであるから、殺害犯を探し出してテーバイから追放しろとの信託が出た。そこでオイディプスは盲目の預言者に犯人を問いただすのだが、その結果ほかならぬ自分自身が父親殺害と母親との近親相姦を行ったということがわかる。絶望したオイディプスは、自らの眼を刺し貫いて盲目となり、自らをテーバイから追放して放浪の旅に出るのである。

このオイディプスをめぐる悲劇において、オイディプスは理性的で的確な判断のできる、賢明な人物として描かれている。彼が困難に直面するたびに行う判断は、その場の判断としては最適な判断だというふうに提示される。ところがその判断が、結果的には裏目に出て、大きな目で見れば、かれは常に自分で自分を窮地に追い込むようなことを為しつつづけるのである。これをソポクレスは神々のなせる業だといっている。人間は神々の前では無力であって、なにごとも自分自身で完結することはできない。神々が彼の運命を左右しているからである。その結果、オイディプスは、判断においては的確で犀利でありながら事実においては盲目であり、高潔さをたたえられながらも事実においては破廉恥であり、人々の救世主となるはずが禍根の種になる。これらすべてが神々の思し召しとしてなされるのであるが、その神々による皮肉といえることがイロニーという形をとる。「オイディプス王」という劇は、全編がイロニーからなっているといって過言ではない。

このように、ソポクレスを頂点としたギリシャ悲劇においては、イロニーは神々による人間の運命の支配という形をとる。人間がどんなに的確な判断をしたと思っても、それは神々の眼にそう映るとは限らない。その結果人間に訪れる悲惨さは、人間にとっては受け入れがたいものだが、神々にとっては、そうは映らない。神々にとっては、それが自然の成り行きなのだ。

ここに見られるのは、神々の摂理と人間の摂理がかならずしも一致しないという諦念のようなものだ。その諦念が、人間の眼には不条理に見える事柄を、なんとか受け入れさせるのだろうと思う。だからギリシャ人にとってのイロニーは、文学的な意義においては、人間をめぐる不条理ななりゆきを、なんとか受け入れやすいように、その破壊力を緩和させるための装置としての意味を持ったのだろうと思われるのである。

そこで最後に、哲学的な意義におけるイロニーと、文学的な意義におけるイロニーと、この両者の関連が問題になるが、両者とも否定性という特徴を共有している。哲学的な意義でのイロニーは、否定性を通じてより高度な認識とか生き方とかをめざすという役割をもっているのに対して、文学的な意義でのイロニーは、否定性を通じて人間の生き方を神々の思惑になるべく添わせるように働くようである。どちらにしても、否定性は否定性にとどまることなく、肯定的なあるものについて、それを補完するような働きを期待されているようである。もしそうだとすれば、キルケゴールのイロニー論は、イロニーをめぐるきわめて例外的な議論だということになる。





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