主体性と責任・レヴィナスの後期思想

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主体性をめぐるレヴィナスの議論はかなり錯綜しているように映る。というのもレヴィナスは、主体性を受動性と結びつけて論じるからだ。普通、主体性の対立概念は客体制であり、受動性の対立概念は能動性である。であるから主体性と受動性とは違ったカテゴリにーに属するといってよく、論理的には、主体性と受動性が結びつくことには破綻はないはずなのだが、それでも奇異な感を与えるのである。それは、哲学の伝統の中では、主体性が能動性と結びついて来た歴史があるからだろう。

主体性は、主として、主観=客観図式との関連で論じられて来た。この図式においては、主観は認識の主体であり、客観は認識の対象=客体である。そして主体が客体を能動的な作用を通じて認識するという構図になっていた。主体が客体に働きかけることで、認識が成立すると考えられたわけである。この構図は、認識の働きに限らず、人間のあらゆる働きに類比された。人間は、自分のいる環境、それは自然であったり人工的な環境であったりするわけだが、その環境に能動的に働きかけることで、世界を自分の思うように変えていく。その作業を労働といったり、行動といったりするが、いずれにしても人間というものは、基本的には、能動的な存在者としてイメージされていたわけである。

ところがレヴィナスは、人間のそうした能動的なあり方を、人間本来のあり方だとは考えない。人間本来のあり方とはレヴィナスにとって、受動的な性格のものなのである。何に対して受動的なのか。他者である。この他者には神も含まれる。人間は神に対して能動的に働きかけることはできない。何故なら神は人間を創造したのであるし、人間を思うように動かすことができるからである。そうした、いわば万能の神に対して、人間は受動的に振る舞えるだけである。他人についても同様である。他人は私が能動的に働きかけて、そのことで私の意のままにできるようなものではない。第一他人は、私の力の及ばない場面で、突然私の前に到来し、私に対して命令するのである。何を? 自分に応答せよという命令である。その命令に対して、私はただただ受動的な立場で答えなければならない。私は他人との間の関係においては、徹底的に受動的なのである。

私と他者との関係をレヴィナスは「責任」という言葉を使って説明する。私は他者に対して責任を有している。その責任の内実は、全面的なものであり、単に私が他者に負債を負っており、それを返済する責任があるというレベルにはとどまらない。私はいわば他者の負債まで責任を負わねばならないのだ。それは他者の身代わりになることを意味する。この絶対的な責任、無条件の責任をレヴィナスは次のように定義する。

「いかなる自由、いかなる意識、いかなる現在にも先立って背負わされた借財に対して責任を負うこと、それも、この借財について何らかの考えを抱くに先立って責任を負うこと、それが責任という応答である」(「存在の彼方へ」合田正人訳、以下同じ)。かかる責任を負わされた私は、自ら進んで、責任を果たせという命令に従わねばならない。「命令が表明される前に命令に従うこと、それが責任の最初の運動であるかのようだ」

これは主体の主体性としての能動的な態度を連想させる言葉だが、レヴィナスはこの言葉で主体の能動性について語っているわけではない。レヴィナスが語っているのは主体の責任であり、その責任は主体の能動性ではなく、受動性に基礎づけられているのだ。主体としての私は、受動的に責任を負わされるのだ。その受動性は無条件に犠牲を強いられるといってもよい。レヴィナスは言う、「実存は無条件に犠牲を強いられる。主体の主体性、それは可傷性であり、触発にさらされることであり、感受性であり、いかなる受動性よりも受動的な受動性である」。

先稿で主体の応答性に言及した際、主体は他者の前に自分を暴露するといったが、この暴露が、可傷性として、感受性として、いかなる受動性よりも受動的な受動性としての私のあり方を規定しているわけである。

私はなぜ、そのような責任を負わざるをえないのか。それは私が、抽象的な主体一般ではなく、唯一無二のこの私というものだからだ。私は唯一無二の者として他人に向き合い、他人に私自身を暴露し、他人の身代わりになる。「他人の身代わりになることで、主体性の存在は当の存在することを解体してしまうのだ」

ここで解体される存在とは、抽象的な意味での、主体一般としてのあり方である。しかし私はそのようなものではない。私は主体一般などではなく、唯一無二の私なのだ。レヴィナスは言う、「私は<自我というもの>一般ではもはやなく、唯一無二なるこの私である。主体は任意の自我ではもはやなく、~この私が主体なのであり~、このような主体は一般化されることがなく、主体一般ではない」

主体一般としての私は、他人との間で共通項を有している。そのような私は抽象的な存在として、他人と代替可能なものにおとしめられる。しかし私の本来のあり方はそのようなものではない。私は他人と代替可能なものではなく、唯一無二のものなのだ。レヴィナスは言う、「私と他の人間が共通項を有している場合、他の人間は私と入れ替わることができるのだが、私の責任は、他の人間との共通項を自分から剥ぎ取りつづけることで、誰も身代わりになれない者として、私をその唯一性のうちに召喚するのだ」

主体一般としての私はまた、自同的な存在者である。私は私自身の自我と合致したかたちで存在している。しかしそのような存在としては、私は他者と正当な形で向き合うことは出来ない。私は、存在することを超えて、存在の彼方へと超越するのでなければ、正当な形で他者と向きあえないのである。それゆえレヴィナスは次のように言うのだ。

「そこで、私たちとしては、『存在するとは他なるもの』という逸脱が、存在しないことを超えて、主体性ないし人間性を意味するものであることを示さなければならない。つまり「存在とは他なるもの」は、存在することの属領たることを拒む自己自身としての主体性なのである。自我、比類なき唯一のもの。なぜなら、自我は類の共通性や形式の共通性から放逐されているからだ・・・自我の唯一性は、自我と自己との合致としての自同性を欠いている。存在することから対比した唯一性~人間」

自同性を欠いた人間は、そのようなものとして他者の身代わりになるほかはない。「自同性の欠損、それは自同性の只中での『他のために』{他の代わりに}であり、存在から徴しへの反転であり、存在することが転覆して、存在するに先だって意味し始めることである。存在することの我執からの超脱なのだ」

こうしてレヴィナスは、主体性とは存在することの我執から超脱した人間のあり方なのだと結論付けるに至るのである。そういう立場から、レヴィナスはこの「存在の彼方へ」と題した書物の目的を、次のように言明するのである。「本書は主体を人質と解し、主体の主体性を、存在の存在することと絶縁した身代わりと解する」のだと。つまり主体の主体性とは、存在の存在することから絶縁した、他人の身代わりになるような受動性をさしているわけである。こういう主張は、無論レヴィナス独自のものであって、どれほどの有効性をもつかについては、読者自身がレヴィナスと対話しながら考えるべき事柄なのであろう。






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