ディケンズとドストエフスキー:大江健三郎「キルプの軍団」

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「キルプの軍団」という小説の題名は、ディケンズの小説「骨董屋」と関連がある。その小説の中にキルプという名の悪党が出て来て、それが小説の主人公である少女を迫害し、ついには死に至らせてしまう。その邪悪な人間の名を冠した連中が、大江のこの小説のなかでも悪行を働くというわけである。

小説は主人公の少年オーちゃんが、叔父と一緒にディケンズの小説「骨董屋」を、ペンギンブックスの原文テクストで読むところから始まる。この叔父は、四国で暴力犯担当の警察官をしているのであるが、夏休みに東京の兄の家に居候をしている間、甥のオーちゃんにディケンズの手ほどきをしてくれるのだ。この叔父は、英文学の専門教育を受けたことはないのだが、なぜか英語の小説を読むのが好きらしく、その自分の好きな小説であるディケンズの「骨董屋」を、英語教育を兼ねてオーちゃんに手ほどきしてくれるのである。

小説には、ネルという少女が出て来て、お爺さんがほそぼそと経営する骨董屋で暮らしているのだが、そのネルをキルプという悪党が横恋慕する。この悪党は侏儒で、フィジカルな面だけではなく、メンタルな面においてもゆがんだ人間ということになっている。その悪党が、お爺さんの経営している骨董屋を取り上げ、おかげでネルはお爺さんと一緒に放浪の旅に出ざるをえなくなり、その放浪の果てに死んでしまうのだ。

こんな具合に「骨董屋」という小説は非常に暗い小説なのだが、なぜかオーちゃんは強く惹かれる。特にネルという少女の生き方に魅かれるのだ。少女はどんな困難に打ちあたっても、容易に絶望せずに、なんとか生きようと必死になる。そこが少年にはけなげに映ったというふうに、伝わってくるように書かれている。

忠叔父と呼ばれている少年の叔父は、ディケンズの小説に関連して、ドストエフスキーの小説「虐げられし人々」についても解説してくれる。その小説にもネリーという少女が出てきて、名前だけではなく、性格付けもディケンズのネルとよく似ているのだが、それはドストエフスキーが意識的にそう書いているので、そのわけは、ドストエフスキーがディケンズの小説の愛読者だったということになっている。

このような設定を前提にして、この小説のメーンプロットは展開していくわけである。その展開のきっかけとなるのは、百恵という名の女性である。この女性の運命が、オーちゃんの眼にはネルのそれと重なり、現実の世界と小説の世界が交差する形で物語が進んでいくというふうになっている。

この女性をオーちゃんが始めて見たのは、自宅最寄りの駅付近だった。その時オーちゃんは、忠叔父を見かけて近づこうとして、意外な光景を目にしたのだった。百恵と思われる女性をやくざ風の男から忠叔父が守っているところを見たのだ。それについて忠叔父は、後に詳しいいきさつを話してくれる。百恵さんは、昔サーカスの一員だったこと、その頃に忠叔父は彼女と知り合い、以後なにくれとなく面倒を見てきたが、百恵はある人と結婚したのち、その人が借金のことで追われる身となり、ときには危険な目にあうこともあるらしい。だから忠叔父としては、そんな百恵を何とかして守ってやりたいというようなことを聞かされるのである。

そのうち、百恵の方から自分たちの所在に関するメッセージが忠叔父の所に送られてくる。そのメッセージは、オリエンテーリング用の地図に×印の形で記されていたのであった。これは、もしかしたらSOSの相図かもしれないと思った忠叔父は、その所在地を知りたいと思うのだが、オリエンテーリングに詳しい少年は、その地図に記されていた場所の所在地をなんとか割り出すことに成功し、忠叔父の依頼を受けて、その場所の確認に行くのだ。

このようにしてオーちゃんは、百恵とその夫原さん、一人息子のタローの三人と出会うのだ。この三人家族と一緒に、鳩山という男と、若い男女が、暮らしていた。かれらから話を聞いたオーちゃんは、かれらが、忠叔父さんが心配しているように、サラ金から追われている身ではなく、自由気ままに暮らしており、しかもかれらの念願だった映画の制作にとりかかるところだということを知る。その映画というのは、百恵を主役にしたもので、原さんがそれまで撮りためて来た百恵の映像、それは一輪車を乗り回す百恵の姿を映したものだが、そういう影像を活用しながら、人間ドラマを描こうというようなものだった。

百恵とその夫の原さん、そして鳩山という男はオーちゃんに心を開いてくれたが、若い男女だけは別で、オーちゃんの叔父が警察官だと聞いて、露骨な警戒心を示す。オーちゃんにはその理由がわからなかったが、やがて判明する。この男女は、ある過激派に属していて、その過激派の先輩である原さんに戦線復帰を呼びかける一方、鳩山は敵対するグループの人間だから、ゲバをかけてやろうと考えているのだ。その考えを男女たちの口から聞いたオーちゃんは、この不気味な闘争に巻き込まれて、百恵が殺されるのではないかと恐れる。ネルが死に追いやられたように、百恵も死に追いやられるのではないかと心配するわけだ。

しかし実際に死んだのは百恵ではなく、彼女の夫原さんだった。それでも百恵にとっては大きな打撃だが、百恵は自分自身が死ぬつもりでいたらしいところに、夫の原さんが死んだことを、自分の身代わりのように受け取ったふうなのだ。小説はそこのところを露骨には触れていないが、行間からはそう伝わって来る。あるいは、百恵の死を恐れるオーちゃんの気持が、行間ににじみ出たということかもしれない。

そこで、原さんに襲い掛かって殺してしまう連中のことを、この小説ではキルプの軍団と言っているわけである。原作の「骨董屋」には、キルプという男は出て来るが、キルプの軍団というのは出てこないから、これは作者である大江の工夫だ。そのキルプは、一応悪人らしく描かれてはいるが、その人柄にオーちゃんが共感するところもあったりして、そう単純には描かれていない。その単純ではないキルプの人格を、この小説の中で、原さんを襲撃して殺害する過激思想集団に名付けたのはどういうわけか。そこのところはいまひとつすっきりしない。

ともあれ、原さんが死んだことを、オーちゃんは自分の責任だと感じ取って、精神的な危機に陥る。その危機がオーちゃんにとっては、大きな試練となって、かれをイニシエーションのプロセスに導いていくわけである。原作の「骨董屋」にはイニシエーションの要素はないらしく、かえって悲惨な運命劇のようなところが強いようだが、大江はこれを小説の材料として取り入れるにあたって、イニシエーションのテーマを無理にはめ込んだというふうに伝わって来る。大江には周知のように、自分が読みこんで来た様々な作家を、小説の構成要素として活用する傾向があり、この小説の場合には、それがディケンズの「骨董屋」だったということかもしれない。ドストエフスキーのほうは、ついでのようにして触れられているだけで、詳しくは言及されていない。






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