独裁者とその孫:モフセン:マフバルバフ

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モフセン・マフバルバフの2014年の映画「独裁者とその孫」は、ある独裁者の没落をテーマにしたものだ。この映画の中の独裁者が、具体的に誰かモデルがいるのか、それとも架空のモデルなのか、気になるところだ。というのも、イランの歴史には独裁者が君臨したことがあるからだが、この映画の中の独裁者は、イランの歴史上の独裁者とストレートには結びつかない。映画自体も、これは知られざる国での出来事だと断っている。

ある国の独裁者が、クーデターをきっかけに権力の座から追われ、国内を逃げながら放浪する。その逃避行がこの映画のテーマなのだが、面白いことにその逃避行に孫を伴なうのだ。孫を伴なっていることで、単なるエゴイスティックな逃避行ではなく、人間的な要素が生まれる。この映画はそうした人間的な要素に着目した視点から、権力とは何かについて、観客に考えさせようとしている。かなり複雑な意図を持った作品だといえよう。

独裁者は、孫に自分の権力を誇示するのが好きで、首都の夜の証明を一存で消したり付けたりするところを孫に見せ、また孫にもやらせてみる。孫はそのゲームを通じて、権力とはいかなるものかを学ぶのだ。ところが、そのゲームの最中に、照明の点滅が意のままにならない事態が起きる。反大統領派のクーデターが起ったようなのだ。

自分の境遇を理解した大統領は、妻や娘などの家族を飛行場から外国へ避難させようとする。しかし孫は祖父と一緒に残るという。孫は両親が反大統領派に殺されて孤児になってしまい、祖父しか頼れるものがいないのだ。

こうして元大統領の祖父とその孫とが、二人手を携えて国内を逃亡して歩く。その逃避行のなかで様々なことが起る。いままで権力者であった大統領は、いまではお尋ね者として権力に付け狙われる。元大統領は、ただひたすら逃げ回るしかないのだ。その逃避行のなかで、彼は自分がいかに民衆から憎まれているかを痛感する。権力もさることながら、民衆も彼の敵なのだ。そこで孫に向って言い聞かせる。すべての人間が敵なのだと。

その孫の身の安全を少しでも高めようと、孫に女装をさせたりする。そして女装した孫にダンスを踊らせ、自分はギターを弾きながら、各地をさ迷い歩く。我々は旅芸人だと偽りながら。その旅の途中で、彼らがもっとも驚いたのは、軍人たちの腐敗ぶりだ。軍人たちは極度にモラルが低く、あちこちで山賊化して追いはぎを働いたり、婦女子を強姦するのだ。そこには、どんな権力も腐敗し、腐敗した権力程ひどいものはないといった、さめた視点を垣間見ることができる。

途中で足の悪い男たちの一団と一緒になり、旅を続ける。その旅の途中で、ある男の家に立ち寄ったところ、五年ぶりに再会した妻が他の男の子を産んでいたことに絶望した男が自殺するというハプニングがおきたりする。その男は、万能鍬の刃先を自分の喉に突き立てて死ぬのである。こういう死に方は日本人はしない。イラン人特有の死に方なのだろうか。

畑のなかで案山子の真似をしたりまでして敵の目をくらまそうとするが、ついに捕まってしまう。海岸で地元の民衆に身柄を拘束されてしまうのだ。民衆はみな大統領を憎悪している。孫ともども殺してしまおうと喚き叫ぶ。そこに、それまで同行していた足の悪い男たちの一人が、憎しみは憎しみを呼ぶだけだといってとめようとするが、興奮した民衆にはなかなか声が届かない。彼らは、まず孫を吊るして、大統領につらい思いを味わせたうえで、大統領を火あぶりにするつもりである。しかし、映画はその最後のシーンを映さないままに終わる。

こんな具合に、この映画は没落した権力者の悲哀を描いているのだが、かれが権力者として行った悪行は具体的にはイメージ化されず、かれが迫害されるシーンばかりが前面に出ているので、そこに小さな子がかかわっていることもあり、観客はあたかも、無実の人間が迫害されているかのように錯覚することもある。そのような錯覚は、やはり暴力がものをいう場面ばかり見せられることから起こるのだろう。暴力には正義と不正義の区別はない、それ自体が悪なのだ。その悪に曝される人間はだから、人間と言う資格において暴力を糾弾する資格がある。どうもそんなことをこの映画は主張しているように見える。





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