狂言「居杭」を見る

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先日(2020年2月23日)のNHKの古典芸能番組が、狂言「居杭」と能「烏帽子折」を放送した。どちらも一家三代が共演するという趣向で、狂言のほうは大蔵流宗家の大倉彌右衛門一家が、能のほうは観世流武田志房一家が出演していた。まず狂言のほうから紹介しよう。

「居杭」は小名狂言の傑作。居杭とは小僧の名前で、その小僧が、常々自分の頭をはたいてばかりいる男を相手に、さんざんからかうという内容だ。それに算置という占い師がからむ。この占い師は、易の算木のかわりに小さな積み木のようなものを並べて占うのだが、たしかにその占いはあたるものの、小僧が透明人間宜しく姿を見せないので、折角の占いも効果をそがれるというような内容である。

シテは一応居杭ということになっているが、この日は孫の大蔵章照が演じ、祖父の大蔵彌右衛門が亭主を、父親の大蔵彌太郎が算置を演じた。まず居杭が出て来て、口上を述べる。日頃世話になっているお方は、自分の頭をはたくのが好きで、迷惑している。ついては清水の観音様にお参りして、祈願したところ、夢想に頭巾を下された。この頭巾をかぶれば、頭をはたかれないでもすむか、あるいははたかれても痛くないか、その奇特を見極めたい。そういって居杭は亭主のもとに姿を現す。

果たして亭主は居杭の頭をあいかわらずはたく。そこで居杭が頭巾をかぶると、姿が消えて見えなくなる。亭主が不思議に思っているところに算置が通りがかる。亭主は算置を屋敷に導き入れて、消えた居杭の所在を占ってもらうのだ。そのやりとりは以下のとおり。

算置 さて頼みたいと仰せらるるは、いかようなことでござる
亭主 別なることでもおりゃない 失物でおりゃる
算置 ははあ 失物
亭主 なかなか
算置 して それはいつのことでござる
亭主 今日ただいまでおりゃる
算置 今日ただいまでござらば まず当年は 令和二年二月二十三日 もはや亥の上刻でもござりましょうか

こうして算置は独特の算木をもちいて占いを始める。

亭主 イヤ それは珍しい算でおりゃるの  
算置 イヤ こなたはお素人かと存じてござれば よいところへお心がつきました これは天狗の投算と申して 私の家ならで 他に無い算でござる 
亭主 そう見えて ついに見たことがおりゃない

算置は失物が人間であることをあて、その物が亭主の左手にいることを告げる。しかし亭主には居杭の姿は見えない。居杭が二人の間に座ると、算置はそのことを言い当てる。しかし亭主は無論、言い当てた算置にも居杭の姿は見えない。それをいいことに居杭は二人にいたずらをする。交互に頭をはたいて、相手の仕業と思わせるのだ。

亭主 (居杭に鼻をつままれて)アア痛 ア痛 ア痛 ヤイヤイヤイ そこなやつ
算置 何事でござる
亭主 何事とは落ち着いた なぜに鼻を引いたぞ
算置 なんじゃ 鼻を引いた
亭主 なかなか
算置 イヤこなたは 物にでも狂わせらるるか これ見させられい 今算木をしもうていて それへ手もやりも致さぬ
亭主 でも おのれがせいで 誰がするものか
算置 (居杭に耳を引っ張られて)アア痛 ア痛 ア痛 のうのうのう のう そこな人
亭主 何事じゃ
算置 何事とはむさとした 何故に私の耳の根の抜くるほど引かせられたぞ
亭主 なんじゃ 耳を引いた
算置 なかなか 
亭主 おのれこそ物に狂うか これにいて それへ手もやりも致さぬものを 
算置 でも こなたのなされいで 誰がするものでござるか
亭主 (居杭にたたかれて)アア痛 ア痛 ア痛 ア痛 ヤイそこなやつ
算置 ヤア
亭主 ヤアとはおのれ憎いやつの

こんな具合で、さんざん居杭にいたずらされたあげく、取っ組み合いのけんかになりそうな様子。それを見た居杭はさすがに気が引けて、二人の前に姿をあらわす

居杭 (二人のうしろで)イヤ申し申し
亭主 ヤ 誰やら声がする
算置 まことに声が致しまする
居杭 聊爾をなさるな お尋ねの居杭は (二人の腕の下を通って先へ出て)コリャ これにおりまする(頭巾をぬぐ)
算置 何やら出ましてござる
亭主 イヤ 尋ぬる者はあれでおりゃる 
算置 早う捕えさせられい
亭主 アノ横着者 捕えてくれい
亭主・算置 やるまいぞ やるまいぞ やるまいぞ やるまいぞ
居杭 ゆるさせられい ゆるさせられい ゆるさせられい ゆるさせられい

かくして逃げる居杭を亭主と算置が追いかけながら一曲が終わるのである。この曲の魅力は、小僧のいたずらで、大の男がいがみあうという、いわばドタバタ喜劇的な無邪気さにあるといえよう。





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