ヴァンダの部屋:ペドロ・コスタ

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ペドロ・コスタはポルトガルのドキュメンタリー映画作家である。さまざまなドキュメンタリー映画で世界の注目を集めた。2000年に作った「ヴァンダの部屋」はかれの代表作だ。カンヌで話題になった。

リスボンのスラム街で生きる人々の表情を描いている。まさに表情を描くというにふさわしく、この映画は人々の表情を映し出すことから成り立っているといってよい。コスタはそれらの表情を描くために、当該のスラム街にカメラを据え、二年間にわたって人々の表情を撮影し続けたという。撮影の対象となったのは、少数の人間で、かれらはほとんど人間的な活動をせずに、専ら家の中に閉じこもっていることが多いので、必然的に表情をとるしかやりようがないといった具合なのだ。

舞台となったスラム街は、再開発の対象となっているようで、映画の撮影されている間、つねに破壊の音が聞えて来る。その破壊は映画が終わる時点で完結しておらず、ユンボが域内の人家を破壊し続けているので、破壊することそのものが、この映画の表現内容だといってよいくらいである。

登場人物はそう多くはない。ヴァンダという名の女性を中心にして、彼女の家族(妹、母親、母親の愛人、誰の子かはっきりしない小さな男の子、監獄に入ることになった姉)、友人らしい人たち、その多くは男で、中にはヴァンダの愛人らしい者もいる。ヴァンダを含めてこれらの登場人物は、仕事らしいことをしていない。ただブラブラとしているだけである。だからドラマが生じようがない。ときたまかれらのいう愚痴を通じて、ドラマの代替物のようなものを探せるくらいなものだ。こんな具合にドラマ性を欠いたままで、映画はほぼ三時間かけて進んでいくのである。

映画は、ヴァンダと妹がベッドに腰かけてドラッグを吸う所から始まる。彼女らは二人とも麻薬中毒らしいのだ。とくにヴァンダのほうは、中毒の具合がひどいらしく、ドラッグを吸い込む先からひどい咳に襲われている。そのひどさは、咳をしながら胃の中身を吐き出す所に現れている。重症の喘息か肺炎にかかっているのではないかと思われるほどだ。

ヴァンダは、時たま野菜を売り歩くほかは、だいたい自分の部屋に閉じこもってドラッグを吸っている。ドラッグを吸うことが彼女の人生の総てといった具合なのだ。ドラッグを吸うのは、彼女の他にもたくさんいるし、なかには注射する者もいる。このスラム街では、ドラッグが流行しているようなのだ。

ほとんどドラマの要素に欠けるなかで、唯一ドラマらしい出来事は、ヴァンダの姉が監獄に入れられるところだ。しかし姉本人は画面には出てこない。かわりにほかの黒人女が出て来て、姉が逮捕された経緯などを話す。姉は、固形スープを盗んだという理由だけで実刑を食らったというのだ。あまりにひどいじゃないかとその女は言うのだが、誰にもどうすることもできない。

ヴァンダには愛人らしい男がいる。黒人で、幼馴染ということらしいが、その男が出て来る場面には、ドラマ性は全くない。ただ己の身の不運を嘆くだけなのだ。そうして登場人物の誰もが嘆いて間にも、町の破壊はどんどん進んでいくというわけである。

小さな男の子は、専らヴァンダの母親が世話しているので、ヴァンダの弟なのかもしれないと思っていたら、映画の最後のほうで、やや成長した姿でヴァンダに抱かれたりするので、あるいはヴァンダの子かなと思ったりする。しかしヴァンダには、子どもをまともに育てる能力はないようなのだ。

このヴァンダを含めて、登場人物はまるで、自分が被写体になっていることを意識していないかのようである。だから役者の演技のようにも見える。そこはコスタの工夫らしい。いきなりかれらを映すのではなく、一応撮影意図などを互いに確認しあった後で、映しているということらしい。

その映し方だが、一シーン一カットの長回しで、しかもカメラは固定されたままだ。だから、人間の身体が画面からはみ出しても、訂正されることはない。延々と長回しされるのである。カメラの固定されている場所は、ほとんどは室内で、したがって暗い画面になる。その暗い画面から人間の表情が浮かび上がってくるように工夫されている。

映画は二年間の時間を含んでいる。だから映画が終わった時点では、小さな子がやや大きくなっていたり、ヴァンダ達にも立ち退きの期限が迫って来たりしている。だがヴァンダ本人には何らの前進もない。あいかわらずドラッグを吸っては激しい咳に苦しんでいるままだ。

この映画を見て、もっとも強く感じたのは、ポルトガルにはこんなスラム街がまだ存在しているのかという驚きのようなものだった。あるいは、まだではなく、あいかわらずといったことなのか。






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