パレスチナ暫定自治の開始と最終解決の頓挫:イスラエルとパレスチナ

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オスロ合意は、PLOにとって不本意な点が多かった。とくに東エルサレムの帰属問題と1948年以降パレスチナを追われてアラブ諸国に離散した人々の帰還権問題について、全く見通しが得られていなかった。しかしそれにこだわっていては前へ進めないという判断から、それらの問題は最終解決として先送りされ、とりあえずオスロ合意に基づく暫定自治を開始し、その後で最終解決に向けての努力をしようという方針をアラファトは立てた。

かくして、オスロ協定を具体化するための協定(カイロ協定)が1994年5月に結ばれ、ガザ・ジェリコでの先行暫定自治が始まる。パレスチナ警察が現地入りしたことが暫定自治の象徴的な出来事として世界中に報道された。アラファトの現地入りも7月に実現した。

同年9月には、自治拡大協定(オスロⅡ)が結ばれ、ヨルダン川西岸の六都市と450の町村に自治が拡大された。この時点までは、オスロ合意はまずまずの成功だと受け取られていた。残りは最終解決をどう決着させるかだった。ところが、1996年5月にイスラエルで初めての首相公選が実施され、リクードのネタニヤフが首相になると、最終解決の成功に暗雲が垂れ始めた。それでもネタニヤフは、オスロ合意を尊重する姿勢を見せて、イスラエル軍の追加撤退に合意したものの、閣議で了承されず、総辞職に追い込まれた。

1999年5月に、労働党のバラク政権が成立した。バラクはパレスチナ和平に積極的だった。オスロ合意にある最終解決の問題を片づけて、イスラエル・パレスチナ問題を最終的に解決することをめざした。その問題の核心は、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の旧居住地への帰還権、ユダヤ人入植地などであった。これらの問題について、相互に話し合うためのテーブルをアメリカのクリントン大統領が用意した。それによる交渉が、2000年7月にキャンプ・デーヴィッド会談という形で実現した。

上述した核心的な問題のうち、エルサレムの帰属については、バラクはクリントンの説得に応じて、東エルサレムのイスラム教徒地区について、パレスチナに帰属させると妥協した。だがそれ以外には、妥協を拒んだ。それに対してアラファトのほうも全面拒絶で応じた。それをバラクとクリントンは非妥協的だといって非難したが、アラファトとしてもそう簡単に引き下がれない事情があった。

エルサレムの帰属については、パレスチナの一存でイスラエルに譲るわけにはいかなかった。エルサレムはイスラム共通の聖地であり、しかも分割できないものと考えられていた。また、パレスチナ難民には、1967年以降の占領地の難民ばかりでなく、それ以前にパレスチナを追われて各地に離散した人々もいたのであるが、それらの人びとへの配慮がイスラエルの側からは期待できなかった。入植地の問題についても、イスラエルは強硬だった。アラファトとしては、そう簡単に妥協できる雰囲気ではなかったのである。

イスラエルのほうでも、バラクに対する批判が高まった。一部とはいえエルサレムについてパレスチナに譲歩し、更にヨルダン川西岸のうち九割程度を返還すると報道されるや、国内の不満は爆発した。バラクはそうした声を無視できなくなった。つまりバラクもアラファトも当事者能力を発揮できない事態に陥ったのである。かくして最終解決は頓挫し、キャンプ・デーヴィッド会談は決裂した。

キャンプ・デーヴィッドの決裂は、パレスチナ難民たちを失望させた。その結果2000年9月に最悪の事態が起きた。第二次インティファーダの勃発である。これは自然発生的というよりは、イスラエルのタカ派が徴発したものだった。パレスチナ人を挑発して大混乱をひきおこし、和平機運を破壊しようという陰謀が働いていたのである。その陰謀の首謀者は、後にイスラエル首相となるシャロンであった。シャロンは、リクードの党首として、同僚の国会議員や武装した側近ら1000名とともに、アル・アクサ・モスクに突然入場し、イスラム教徒を侮辱したのである。これに怒りの火をつけられた形で、パレスチナ人による抗議活動が、全占領地に広まり、和平機運は一気にしぼんでしまった。それがシャロンの狙いだったのである。

そのシャロンが、2001年3月の総選挙勝利を受けて首相になる。これは和平へ向けての動きが終わることを意味した。実際それ以後、パレスチナ問題は全く前へ動かなくなるのである。






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