沈黙:マーティン・スコセッシ

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遠藤周作の小説「沈黙」は、世界中のさまざまな言語に翻訳されて、日本文学としては国際的な反響の大きかった作品である。中には、これを20世紀を代表する優れた小説だとするグレアム・グリーンの肯定的な評価などもあったが、おおよそは批判的な反応が多かった。というのも、この小説が取り上げた、宣教師の棄教というテーマが、キリスト教社会においては、あまりにもスキャンダラスに映ったからだろう。キリスト教の伝道の歴史においては、殉教は輝かしいものとしてたたえられる一方、棄教は悪魔への屈服として、嫌悪を持って受け止められたのである。

原作の映画化としては、篠田正弘の1971年の作品「沈黙」がある。小生は未見だが、原作者の遠藤周作が脚本にかかわったこともあり、かなり原作に忠実な作りになっていると言われる。マーティン・スコセッシによる映画化は、2016年だから、篠田より45年後のことである。スコセッシはこの作品の映画化を長い間構想していたということであり、かなり力が入っているという印象を受ける。

見ての印象は、原作の雰囲気を最大限尊重している。配役は、ポルトガル人のパードレたちを除けばすべて日本人で、しかもその日本人たちになるべく日本語を話させている。だから我々日本人が見ると、非常にわかりやすい。その辺は、クリント・イーストウッドの「硫黄島の砂」を意識しているのだろうか。

原作は、実に陰鬱な雰囲気に満ちているのだが、映画もそうした雰囲気を最大限醸し出している。原作では、信仰の揺らぎを内面の声として浮かび上がらせる手法がとられ、その部分が小説の最大の読ませどころになっている。しかし映画では、人の内面はそのままには表現できないので、それに代わるものとして、人物の表情とか、キリストの幻影とか、映画ならではの工夫によって埋めている。

そうした事情を総合的に勘案すると、この映画は、キリスト教を抑圧する日本人の狡猾さと、かれらによって棄教させられるイエズス会パードレの心の弱さが浮かび上がって来るように作られている。そんなわけだから、いくら原作に忠実だからと言って、スコセッシ自身に、キリスト教に対する相対的な姿勢がないかぎりは、こんな映画を作ることはできない筈だとの反応もあったようだ。中には、スコセッシを無神論者呼ばわりする者もいたようだ。それほどキリスト教の信仰にかかわることは、微妙なのだ。

パードレがあっさりと棄教する一方、無知な日本人の信徒は、命をかけて信仰を守りとおす。そこにこの作品の救いがあるのかもしれないが、それではヨーロッパ人種にとって、キリスト教徒はなにか、という根源的な問いには答えられない。じっさい、映画の中のパードレは、そのあたりを曖昧なままにしたまま、日本人として死んでいくのである。






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