高利資本:資本論を読む

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資本主義以前の金融業をマルクスが高利資本と呼ぶのは、貸した金が利子を生むことに着目してのことである。資本主義的生産様式のもとでは、前貸しされた金は利子を生む。その利子は、労働者を搾取することで得られる剰余価値を源泉としている。そういう意味では、資本は資本主義的生産様式を前提としており、資本主義以前の金貸しに資本という言葉を適用するのは、厳密には相応しくないのであるが、マルクスはそこを棚上げして、利子を生む金を資本と定義し、資本主義以前における利子を生む金を高利資本と呼んだわけだ。もっと赤裸々な言葉で言えば、高利貸とか金貸し業者ということになる。そのほうが実態に合っていると言えよう。

高利貸し自体は、ローマ時代の昔からあった。マルクスは、「高利資本の存在のためには、生産物の少なくとも一部分が商品に転化しており商品取引と同時に貨幣がそのさまざまな機能において発展しているとことのほかには、何も必要ではない」と言っている。つまり、商品経済と貨幣が一定程度存在するところでは、高利資本が生まれる条件があるということである。古代ローマの末期には、そうした条件が満たされ、高利資本が発生した。日本でも、高利貸しが跋扈するようになるのは、中世に商品経済と貨幣がある程度いきわたってからである。

資本主義的生産様式においては、資本は剰余価値の取得を目的として投下される。だから、生産への投資が基本である。商業や金融は、資本主義的生産を円滑にするためのものであり、その利潤は生産がもたらす剰余価値の分け前である。だから利子率は、剰余価値あるいは利潤を限界としている。それを超えることはないのである。これに対して資本主義的生産様式以前の時代にあっては、金は、つまり高利の資本は、浪費をこととする貴人と、小生産者とりわけ小農民に対してなされる。それには、資本主義的生産において利子を制約する利潤という限界はないから、高利の率には必然的な限度というものはない。「中世にはどこの国にも一般的な利子率というものはなかった」。利子率は借りる者の支払い能力と、高利への抵抗に応じて決まった。そんなわけだから、高くなる傾向があった。資本主義以前の金貸しが一概に高利貸しと呼ばれたゆえんである。

ちなみにマルクスは、中世ヨーロッパ各国での利子率を紹介している。カール大帝の時代には100パーセントを超えると高利と呼ばれた。ボーデン湖畔のリンダウでは、216パーセントの利子が取られた。それに対してヴェローナは12.5パーセントを法定利率と定めた。また、皇帝フリードリヒ二世は10パーセントと定めたが、それが適用されたのはユダヤ人だけだった。マルクスは明言していないが、経済活動が活発になるにしたがって、利子率は低下する傾向があるようである。なおこれは余談だが、いまの日本では、法定利息の限度は14.6パーセントである。これは公的機関が公租公課の延滞金に対して伝統的に課してきた利率であり、懲罰的な意味合いを含んでいる。

高利は膨大な数の債務奴隷を生む。ローマの場合についていえば、高利のために平民や小生産者が債務奴隷に陥り、純粋な奴隷経済が小農民経済にとってかわった、とマルクスは言う。中世でも同じような現象が起きた。高利のために債務奴隷に陥った小生産者たちは、自分の労働を売るほか生きる手当てができなくなった。さすがに古代の奴隷経済が復活したわけではないが、別の形の奴隷経済、賃金奴隷の上に成り立つ経済システムの登場に道を開いたわけである。マルクスは言う、「高利は、一方では、古代的及び封建的富にたいしても、古代的及び封建的所有にたいしても、転覆的に作用する。他方では、それは、小農民的および小市民的生産を、要するに生産者がまだ自分の生産手段の所有者として現われているようなすべての形態を、転覆し破滅させる」。そのかぎりで高利は、一つの時代から次の時代への移行について、ある程度の推進力となった、とマルクスは言うわけである。「古い労働条件の占有者を滅ぼすということを実現するかぎり、高利は産業資本のための諸前提を形成するための強力な槓杆である」

高利が憎まれ、また高利の体現者と見なされたユダヤ人が憎まれたのは、高利がもつこうした破壊力のためである。高利のために人々は債務奴隷に陥り、人間としての尊厳を奪われた、そう感じて高利とユダヤ人を憎んだことにはそれなりの理由がある。ヨーロッパの庶民がユダヤ人に対して伝統的に抱く憎しみは、理由のないことではないのである。

高利資本は、資本主義的生産様式の発展と共に、合理的な信用制度によって駆逐されていった。先ほども述べたように、資本主義的生産様式のもとでは、利子は利潤の一部であるから、おのずから限度がある。その限度を超えては、金を借りることに意味はないのである。高利と低利との競争では、低利が勝つのが当たり前で、高利は速やかに退場するはずなのだが、かならずしもそうとばかりは言えない。信用制度が堅固に定着するまでには、高利との長い戦いの歴史があったことをマルクスは指摘している。イングランド銀行は、そうした高利との長い闘いを経て、近代的金融制度を確立したのだった。その戦いを簡素化して言えば、利子率を利潤の範囲内に収めること、その範囲内でなるべく産業資本が有利になるように利子率を決定することだった。それはなるべく金利を引き下げるための闘いという様相を呈した。利潤率が利子率を規定するのが本来のあり方であり、利子率が利潤率を規定するのは本来のあり方からの逸脱だというのが、この戦いの一方の当事者の合言葉だった。

高利貸しは、発達した資本主義社会においても全くなくなってしまうわけではない。生産的な領域では、高利貸しの入る余地は(普通の場合は)ないが、私的消費の領域では存在し続ける。消費者金融と呼ばれるものはその例だ。日本では一時期非常に盛んになり、それによって債務超過に陥った人々の苦境が社会問題となった。それを踏まえて法定上限利率が定められたりした。緊急な事情で金を必要としている人が存在するかぎり、高利貸しはその存在意義を失わないのである。







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