法華経を読むその十五:従地湧出品

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天台智顗は、法華経二八章を二分し、前半を迹門、後半を本門とし、それぞれをさらに序分、正宗分、流通分に細分して、全体を二経六段で構成されているとした。前半は「序品」から「安楽行品」まで、後半は「従地湧出品」から「普賢菩薩勧発品」までである。「従地湧出品」第十五は、本門全十四章の序文としての位置づけである。

本門は、「如来寿量品」をハイライトとし、如来すなわち釈迦仏の永遠性を説くことを眼目としている。「従地湧出品」は、序章として、現実に生きた釈迦と、永遠の過去から存在している釈迦との関係について暗示される。暗示というのは、ここでは現実の釈迦が、短い期間に無数の菩薩を教化したことに疑問が提起されるだけだからである。現実に生きた釈迦は、わずか四十年あまり布教をしたにすぎないのに、無限の時間を要するほどの教化をなしとげた。それは常識では考えられないことである。だから、釈迦は普通の生き方をしたのではない、ということが暗示されるのである。その暗示は、次の「如来寿量品」において、明確な形で説き明かされるのである。

この章では、娑婆世界、つまりこの世の大地の底から夥しい数の菩薩が湧出する。その数は、例によって、具体的な数のイメージを超えたもので、要するに無限大の量という意味である。かれらが出てきたのは、釈迦仏の意志に答えてであった。他方の国土からやってきた菩薩たちが、釈迦の意思をついでこの娑婆世界での布教をしたいと申し出たところ、釈迦はそれには及ばず、この娑婆世界には、それなりの菩薩が控えていると言って、無数の菩薩を大地の底から呼び出すのである。

彼らが湧出した時、大地は震裂したという。みな金色に輝き、三十二相と無量の光明をともなっていた。三十二相とは、如来の備えている身体的な特徴をいう。みな揃って釈迦仏と多宝如来のもとに赴き、うやうやしく礼拝した。この菩薩たちの中に、四人の導師がいた。その名を、一に上行、二に浄行、三に無辺行、四に安楽行といった。これらは、それぞれが四弘誓願に対応している。仏道無上誓願成には上行が対応するといった具合だ。いずれの菩薩も、上首の唱道の師であると言われる。

これらの菩薩を前にして、釈迦仏は言う、「如来は安楽にして、少病・少悩なり。諸の衆生等は、化度すること易く、疲労あることもなし」と。すると菩薩らは、それは如来のおかげですと言う。

このやりとりを聞いていた弥勒菩薩は、その場に居合せた人々の疑問を代表して、次のように釈迦に問うた。自分たちは今まで、かくの如き菩薩たちが地より湧出して、如来を問訊するところを見たことがない、かれらが忽然として地より湧出したことの因縁をお聞かせ下さい、と。これに対して釈迦仏は、「汝はよく、仏にかくの如きの大事を問えり」といって、その因縁を語る。

これらの菩薩たちは、この娑婆世界にある虚空に浮かびながら、諸の経典を読誦し、思惟し、分別して、正しく憶念した。しかも、無限の過去から、仏の知恵を学んできた。いまは悟りを開いて、衆生を教化するにふさわしい境地にあるのだと。つまり、釈迦仏は、自分の滅後は、これら娑婆世界の菩薩たちが、衆生を教化してくれると言っているのである。

その際に釈迦仏は、「われ久遠よりこのかた、これ等の衆を教化せしなり」と言う。この言葉に弥勒菩薩は、新たな疑問を抱く。釈迦仏の命は、わずか八十年、さとりを開いたのちに四十年がたったばかりである。それなのに、これらの菩薩たちを、久遠の昔から教化してきたとはどういうことか。これは、矛盾というほかはない。譬えて言えば、年二十五の青年が百歳の老人をさして、これ我が子なり、というようなものではないか。

弥勒菩薩は、自分の疑問をつぎのように詳しく説明し、それへの答えを釈迦仏に求める。「道を得たまいしより已来、それ実に未だ久しからず。しかるにこの大衆の諸の菩薩等は、已に無量千万億において、仏道のための故に、勤行し、精進して、善く無量百千万億の三昧に入・出・住し、大神通を得、久しく梵行を修し、善能く次第に諸の善法を習い、問答に巧みにして、人中の宝として、一切世間に甚だ稀有なりと為らる。今日、世尊は、方に仏道を得たまいし時、初めて発心せしめ、教化し、示導して阿耨多羅三藐三菩提に向わしめたりという。世尊よ、仏を得たまいしより未だ久しからざるに、乃ち能くこの大功徳の事を作したまえり。我らは、復仏の宜しきに随って説きたまうところと仏の出したまうところの言は、未だ嘗て虚妄ならず、仏は知るべきところのものをば、皆、悉く通達すと信ずといえども、しかも諸の新発意の菩薩は、仏の滅後において、若しこの語を聞かば、或は信受せずして、法を破る罪業の因縁を起さん。唯然。世尊よ、願わくば、ために解説して、我らの疑いを除きたまえ」

弥勒菩薩は更に、偈をもって釈迦仏に問いかける。
  願わくは仏よ、未来のために 演説して開説したまえ
  若しこの経において 疑を生じて信ぜざる者有らば
  即ち当に悪道に堕つべし 願わくは今、ために解説したまえ
  この無量の菩薩をば 云何にして少の時において
  教化し発心せしめて 不退の地に住せしめたまえるやを

このお経は、釈迦仏への弥勒菩薩の問いで終わっている。その問いへの釈迦仏の答えは、続く「如来寿量品」においてなされる。

なお、弥勒菩薩が諸の菩薩を形容する表現として、蓮華にたとえる場面がある。
  善く菩薩の道を学びて 世間の法に染まらざること
  蓮華の水にあるが如し 地より湧出して
  皆、恭敬の心を起し 世尊の前に住せり
蓮華の水にあるが如し、とは蓮の花が泥水のなかで咲くことをいう。そのように、この菩薩たちも、濁世にあって、衆生を救済する、あるいはこの濁世の衆生を救済できるのは、この濁世にルーツを持つかれら娑婆世界の菩薩よりほかにはいない、ということを説いているわけである。







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