ドラクロア:ロマン主義絵画の巨匠

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ウジェーヌ・ドラクロア(Eugène Delacroix 1798-1863)は、ロマン主義絵画の巨匠といわれている。そこでロマン主義絵画とはいかなるものかが問題となるが、あまり明確な定義がない。普通は新古典主義との対比において論じられるが、新古典主義の絵画が明確な形をとるのはフランスだけと言ってよいので、国際的な拡がりはもたない。一方文学の分野では、ロマン主義の運動は国際的な拡がりをもっていた。イギリスではバイロンやシェリーの詩がそれだし、ドイツではハイネが、またフランスではユーゴーがロマン主義運動の旗手といえる。絵画におけるロマン主義はそれの変形的なヴァリエーションと言えなくもない。

文学におけるロマン主義は、人間の感性的な側面を重視し、人間らしい情熱を歌い上げたというのが定説である。ドラクロアが代表するロマン主義絵画にも、それと似たようなことを指摘できる。ドラクロアは、歴史画や宗教画を多く手がけたが、ルネサンス絵画やバロック絵画と比較して、人間の情熱的な面をダイナミックに表現している。また、バイロンのギリシャ独立戦争へのかかわりに刺激された作品(ミソロンギに立つギリシャ)や、フランスの七月革命に取材した作品(自由の女神)などは、自由を求める人間の情熱的な行動を賛美しているように見える。

そんなドラクロアの、人間的な側面を適切に批評したのは詩人のボードレールだった。ボードレールは「ウジェーヌ・ドラクロアの生涯と作品」という文章の中で、ドラクロアを情熱の人だといい、「悲しく大きな情熱と、それに加えて驚くべき意思、これがドラクロアという人間でありました」(高階秀爾訳)と書いている。

情熱の人であるドラクロアを芸術家として駆動させているのは、豊かな想像力である、とボードレールは言っている。絵画とは自然の模倣ではなく、人間の想像力から生まれるものであり、またそうあるべきだというのがボードレールの考えだった。「目に見える世界はすべて、想像力によってはじめてそのあるべき所と相対的価値とを与えられる多くの映像と記号の倉庫であり、想像力が消化し、変貌させねばならぬ飼料である。人間の魂の全能力はみな想像力に従属させられねばならず、想像力はそれらすべての能力をいわば同時に配下にする」とボードレールは言うのである。

技法の面では、色彩の豊かさに注目している。特に赤や黄色といった暖色系の色をふんだんに使うところがドラクロアの特徴だとボードレールは書いている。バロック絵画が強烈な明暗対比を特徴としたのに対して、ドラクロアの絵画は色彩の氾濫ともいえるほどに、豊かな色づかいを持ち味としたといえよう。じっさいドラクロアの絵画は、ヴェネツィア派の後継者といえるようなところがある。

ドラクロアは、官吏の息子として生まれた。父シャルル・ドラクロアは、外交官であり、ナポレオン総統政府の時代には外務大臣を務めた。だが、ドラクロアの本当の父親は狡猾な政治家として知られるタレーランだという説もある。そういう説は、ドラクロアが順調に出世したことの背景に政治的なパトロンの存在を指摘するのだが、確証があるわけではない。

17歳の頃、ピエール・ゲランの画塾に入門。ゲランは新古典主義の画風で、ドラクロアはあまり評価しなかった。かれが強くひかれたのはテオドール・ジェリコーである。そのジェリコーを通じてロマン主義的な画風を開拓したのだと思われる。

24歳のときに、サロンに初めて出展した作品「地獄のダンテとヴェルギリウス」が入選し、国家買い上げとなった。26歳のときには、「キオス島の虐殺」がサロンで二等賞をとり、これも国家買い上げとなった。かれは若くして画家としての順調なスタートを切ったのである。もっとも私生活の面では、家の破産に見舞われたり、あまりいいことはなかった。それでもかれは、画家として自立する希望をもつことができた。

1930年の7月革命に取材した「自由の女神」は、ドラクロアの代表作であり、またロマン主義絵画の代名詞のような作品である。これも国家買い上げの栄誉に服した。生前に国家から作品を買い上げられるような画家はめったにおらず、ドラクロアがいかに高く評価されていたかがわかる。

1832年から翌年にかけて、モルネー伯爵の随員としてモロッコに旅行した。アフリカの明るい大気は、ドラクロアの色彩も明るくした。また、モロッコ人の生活に取材した作品を通じて、エクゾチックな雰囲気を大胆に取り入れた作品を作るようになる。

ドラクロアはまた、ダンテやシェイクスピアといった文学作品に取材した作品を多く手がけた。これもドアクロアの著しい特徴である。文学作品を自分なりに読み解いて、それをイメージ化するというのは、イギリスのラファエル前派などにも指摘できることだが、ドラクロアはそういう動きの先駆者と言ってよい。

ドラクロアは、生涯を画家として過ごし、晩年には大家としての名声を享受した。各方面から大作の依頼が殺到したが、それらには宮殿や教会を飾るための作品もあった。名声の絶頂にあった65歳のときに、ドラクロアは喉頭炎で死んだ。ここではそんなドラクロアの代表作を取り上げ、鑑賞のうえ適宜解説・批評を加えたい。(上の絵は、ドラクロアの自画像である)






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