ボルドーの義兄:多和田葉子を読む

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「ボルドーの義兄」は小説とエッセーの中間のような作品だ。中間という言葉は相応しくないかもしれない。中間というと、純粋な小説でもなくまた純粋なエッセーでもなく、両者の谷間のようなイメージがあるが、この作品は小説の要素も持っているし、エッセーの要素も持っている。だからその両者の中間と言うよりは、合成と言ったほうがよいようだ。合成ということになれば、小説的エッセーあるいはエッセー的小説といったほうが実情に合っている。

冒頭に奇妙な模様のようなものが目に飛び込んでくる。よく見ると漢字を左右に反転してある。いわゆる鏡文字というやつだ。冒頭にあるのは「始」の鏡文字で、以後鏡文字が文節のタイトルのような具合に配置され、短い文章が続く。短い文章と鏡文字との関係は、一応ある。しかし全く一致しているわけではないので、やはり鏡文字程度にひねった関係にあるといったほうがよい。たとえば「始」の部分で言うと、これは小説全体のスタート部分だから「始」と題するに相応しいが、小説の主人公がボルドーの駅で出会った男は、その場限りで消えてしまい、以後登場することはないので、その出会いを小説の「始」とするのは大袈裟すぎる、といった具合だ。

小説であるから一応筋書きのようなものはある。優奈という若い女性がハンブルグからブリュッセル経由でボルドーにやってきて、ボルドーに住むある男から彼の家を借りるというような話だ。しかしボルドーでの出来事が、小説の内容となるわけではない、ボルドーで思い出した昔の思い出が小説の内容となる。昔の出来事は大分部がハンブルグでの出来事で、レネと呼ばれる年配の女性との会話がその中心だ。レネにはボルドーにモーリスという義兄がいて、その義兄の家が空家になるので、優奈にそこに住むように勧めたのであった。モーリスはレネの死んだ夫の兄弟ということになっている。その彼が小説のタイトルになるわけだが、かれは小説の中ではほとんど役割を果たしていない。役割を果たしているのは、レネをはじめ、優奈が昔かかわりをもった人間たちなのである。

その人間たちとのかかわりがこの小説の中身を構成する。多和田自身は、文庫版へのあとがきの中で、「ハンブルクという引き出しにしまわれている記憶をボルドーにいることで少しずつ開けて覗き見ることができる、という仕組になっている」と書いているが、その言葉通りこの小説は、ボルドーでハンブルグの思い出を語るという具合になっているのである。ハンブルグとボルドーとは昔から深いつながりがあるそうだ。ハンブルグはハンザ都市としてヨーロッパじゅうと交易関係を結んだが、なかでもボルドーとは、交易に限らず人の交流でも深い関係を結んだ。ほかにもこの両都市には共通項がある。たとえば、どちらも大河の河口から数十キロ遡ったところにあるが、事情に明るくない人には海辺の町と勘違いされることだ。ハンブルグは海まで100キロも離れているのだし、ボルドーだって海と一番近い距離でも数十キロもあるのだ。

そのボルドーはなかなか美しい町だそうだ。町全体が石で出来ていて、その石が白で統一されている。これについて多和田は、「色々な時代の建築物が雑居しているソフィアやベルリンのような町のほうがいきいきとしていて好きだが、ある時代の建築スタイルが町全体の雰囲気を左右しているボルドーのような町には、呼吸が苦しくなるほどの美しさを感じる」と書いている。そういう感覚は、小生もパリの街並みを見て感じたことがある。パリの街並みも、ある時代の建築スタイルで統一されており、人はそこに「呼吸が苦しくなるほどの美しさを感じる」ものだ。

小説全体としてはゆるいながらも一応筋書きというか話の流れのようなものはあるのだが、その流れは直線的な時間を感じさせるものではない。時間はたえず中断され、しかも前後左右に揺れ動く。フォークナーの時間処理を思わせるこの進行スタイルは、話の流れが記憶の再現という形をとっていることにもとづく。主人公は絶えずなにかをきっかけに昔の記憶を現前化させるのだが、そのなにかには相互のつながりがないので、記憶は無秩序によみがえってくる。その想起の中で、出来事の本体と優奈の個人的な観想とが入り混じる。その優奈の個人的な観想が、エッセーの要素になるわけだ。優奈は日本人としてヨーロッパで暮らしていることになっており、言葉とか人種の相違とかいったことに敏感である。言葉や人種へのこだわりは、多和田の初期の作品を色濃く特徴づけるものだが、この小説でもそういう傾向は、かつてより弱まっているとはいえ、まだ見られる。

特に言葉へのこだわりが非常に強い。言葉へのこだわりは、日本語とヨーロッパ語の相違への自覚から生じているようだ。相違は文法的なものから、語源の特徴などまで広い範囲に及ぶ。その相違をあげつらうところに、この作品の面白さがある。なにしろこの作品は、言葉を弄ぶといったところがあり、その言葉遊びが魅力の源泉になっている。たとえば、ドイツ語には「妹」にあたる専門の言葉がない。姉妹は姉も妹もどちらもシュヴェスターと呼ばれる。男の兄弟の場合にも同様で、日本語では年上が兄、年下が弟。弟は「おとおと」と発音するが、「音」が二つ重なっているわけではないといった具合だ。また、「成功」という言葉が「性交」を連想させる。たとえば「あの作家はびっくりするような成功を収めた」というのを、「びっくりするような性交をおさめた」と聞く。これはドイツ人の言ったことを日本人の優奈がそう受け取ったということだが、ドイツ語でも「成功」と「性交」にはなにか共通するものがあるのだろうか。

鏡文字について言えば、同じ文字は二度と使われていないと思いながら読んでいたら、「狼」の鏡文字が出てきて、これは前にも見た文字だと気が付いた。その前の部分を読み返すと、それは「タマオ」について述べていて、狼については触れていなかった。後の部分では、優奈が自分の泣いているときの声を雌の狼に相応しいと思うと書かれてある。ついで「猫」の鏡文字に移り、そこでは「タマオ」が猫だったことがあかされる。小生はそれまでこの「タマオ」を優奈の恋人だと思っていた。無論人間としてである。

「狼」が二度出て来るのなら、もっとポピュラーな「海」も二度出てきておかしくないと思い、ページを繰りなおして鏡文字を探したところ、「海」の鏡文字は一度しか出てこなかった。その文字は水に関連した一連の話の一つとして出てきたのだった。だから「海」は一度だけだが、「さんずい」を持った文字は沢山出てくるのだ。一方「海」と「つくり」を共有する文字としては「りっしんべん」を持った「悔」という文字の鏡文字が出てきた。もっともその部分では、何が「悔」の対象となっているのか、よく読み取れなかった。

こんな具合で、言葉遊びを散りばめながら、エッセーふうに世の中を斜めに見渡しているというのが、この小説への小生の評である。文体はあいかわらず両義的で曖昧なところが多い。意識的にそうしているのだろう。たとえば「あの明るい乾いた夏の日ちょうど正午に優奈がブリュッセルで乗り込んだ列車はボルドーに到着した」という冒頭の文章は、「あの明るい乾いた夏の日ちょうど正午」に起きたのは、優奈がブリュッセルで列車に乗り込んだことか、あるいは彼女の乗った列車がボルドーに到着したことなのか、どちらとも読める。







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