夕暮れの給食室と雨のプール:小川洋子を読む

| コメント(0)
小川洋子の短編小説「夕暮れの給食室と雨のプール」は、小さな子どもを連れた男と語り手たる一女性との対話を描いた作品だ。新婚生活を目前に控えた女の前に、雨の降る日に突然あらわれたその男は、語り手に向って、「あなたは、難儀に苦しんでいらっしゃいませんか」と言った。それを聞いた語り手は、その男が「ある種の宗教勧誘員であることに気づいた。その手の訪問者はしばしば悪天候の日を選び、しかも幼児を連れてやってきては、わたしをどきまぎさせるのだ」

この文章を読んだ小生は、金光教のことを想起した。小川洋子は親譲りの金光教徒であることを公表している。彼女は岡山の出身だというが、金光教は岡山で発生した新興宗教である。岡山だから金光教と結びつくというわけでもなかろうが、彼女が小説のモチーフに新興宗教らしいものを持ち出すには、それなりの背景がありそうだ。

しかし、この小説の中では、金光教を含めて新興宗教が、そのものとして話題になるわけではない。話題になるのは、その男の心の風景のようなものだ。その心の風景の中で、夕暮れの給食室と雨のプールが強く結びついていることが、次第に明らかにされるのである。

語り手は、雨の日に男たちが訪ねてきた日の数日後に、たまたまとその父子と再会した。家の周囲を犬を連れて散歩している最中、海に続く土手沿いの道で、学校の裏門に立っているかれらを見つけたのであった。彼女が住んでいる家は、海の近くにあるようなのだ。

「雨の日にはわからなかったが、かれらはかなりきちんとした上等な服を着ていた」。こんなことを語り手が気にするのは、おそらく新興宗教の勧誘員は押し売りの類ではなく、きちんとした考え方を持っているということを、語り手である作者自身も新興宗教に好意を抱いている者として強調しておきたいのかもしれない。もっとも小説の中でそれに触れられるわけではないのだが。

彼らがそこに立っていたのは、そこから給食室が見えるからだった。子どもが給食室を見るのが好きだからと男は言うのだが、男自身も給食室に特別の思いを抱いているらしい。その思いの一端を男は語り手に語って聞かせる。その話に語り手は大いに興味を覚える。

そんな彼女のもとに、フィアンセがやって来て、色々と新居の手入れを手伝ってくれる。そのフィアンセとの結婚を彼女は親族から反対されていた。「理由は単純でありふれていた。まず彼は、一度結婚に失敗している。十年も司法試験に落ち続けている。その上高血圧体質で偏頭痛持ちだ。ときかく二人は年が離れすぎているうえに、とても貧乏なのだ」。貧乏なので、電話を入れることもできない。だから離れて暮らしているときの連絡手段は電報なのだ。彼は大事な連絡事項があると、電報で知らせてくるのだが、その中にはただ「オヤスミ」と一言だけの電報もあった。

彼女はあの父子とまた会いたいと思ったが、なかなか会えないでいるうちに、十日ほど経った日の夕方に再会できた。かれらは給食室の窓の下で、ダンボールに腰掛けていたのだった。あたかも夕暮れ時で、夕日が海に沈もうとしていた。ということは、この学校は西側が海になっているということだ。西側に海を控えているのは、どこだろう。作者は一切言及していないが、裏日本でないとしたら、紀伊半島とか伊豆半島のような南に向って突出した半島の西側だろうか。

彼女も彼らと並んでダンボールに腰掛けながら、男から話を聞いた。男が言うには、夕暮れの給食室を見ると、いつも雨のプールを思い出す、と。そこでまず雨のプールにまつわる男の体験が語られる。男は子どもの頃に泳げないで、そのことで心に傷を負った。誰もが直面する通過儀礼に男は躓いたのだ。一方男は、やはり子どもの頃に拒食症のような症状を呈したことがあった。それは夕暮れ時に給食室の中を覗いたことが原因だった。おそらく給食の調理に不潔なものを感じ、それで食べることができなくなったのだろう。この二つの記憶、夕暮れ時の給食室と雨のプールの記憶が心の中で結びついていて、男は夕暮れの給食室を見ると雨のプールを思い出すのだと言った。

その後男はこれら二つのコンプレックスから解放された。ふとしたことから泳げるようになったのと、拒食症のほうは変わり者のおじいさんの手ほどきのおかげでなおった。そのおじいさんは悪性腫瘍で死んだのだった。

こんな具合に男の心の中の風景が、強いノスタルジア感を伴って語られるというのが、この短編小説の持ち味である。その語りが、女性らしい素直でしかも静謐さを感じさせる言葉で語られる。文章のもつ独特の力が、読者を夢見心地に誘い込むところは、小川の力量の賜物といってよい。

小説の結び方もうまい。こんな具合だ。「不意にわたしは、オヤスミという電報がもう一度読みたくなった。何の前触れもなく、あの電報の紙の感触や、文字の形や、夜の空気を思い出した。四個のカタカナが全部とろとろに溶けてしまうくらいまで、何度も読みたいとたまらなく思った」。この短い文章の中に、小説全体が圧縮されているようである。






コメントする

アーカイブ