仏教の思想

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角川書店から昭和40年代に刊行された「仏教の思想」シリーズ全12巻は、仏教を思想として解明するものである。これは哲学研究者の梅原猛が中心になって、哲学研究者と仏教研究家が協力しながら仏教の思想的な内容を解明したものだが、その動機を梅原は第一巻の序文の中で言及している。仏教は、嘗ては日本人の心を捉えていたが、近代に入ると忘れられてしまった。それは近代の日本人が西洋の思想にかぶれるあまり伝統的な日本の思想を顧みなくなったためである。ところがその西洋の思想は、いまやその有効性に疑問が突きつけられている。西洋の思想を以てしては、今後の世界の方向性を導くことは出来ない。それが出来るのは仏教である。梅原はそうした問題意識から、仏教を改めて思想として捉えなおし、日本の全国民がそれを理解してほしいと考えて、このシリーズを発案したという。いかにも梅原らしい発想といえよう。

全12巻は、三つのグループに分けられる。それぞれが4巻からなる。第一のグループはインドの仏教、第二のグループは中国の仏教、第三のグループは日本の仏教である。仏教はインド人である釈迦が始めたものであり、したがってもともとはインドのものである。それは宗教であると同時に、思想でもあった。インド人というのは瞑想好きなところがあって、深遠な思想を展開するのが得意である。それが中国に入ると、中国流に変化した。中国の仏教は大乗仏教と言われるものだ。大乗仏教自体はインドで生まれたものだが、それが中国に入ると独特の発展をとげた。更に日本に入ってくるとまた大きな変化が生じた。その日本の仏教と釈迦の唱えたそもそもの仏教(原始仏教といわれる)を比較すると大きな相違がある。それでも仏教という言葉で、あたかも同一のものであるかのごとく考えている。それはやはり、仏教と呼ぶべき思想のいくばくかでも共有しているからだろう。そこで何が仏教として共通し、何が相互に異なっているのか、そこを明らかにすることで、仏教の全体像を把握したい、というのが梅原らの意図だったようだ。

全12巻は、一貫して共通のスタイルで統一されている。仏教学者が仏教専門家の立場からそれぞれのテーマについて説明し、哲学者が思想としての仏教の意義について説明する。そしてその中間に両者の対談をはさんでいる。読者は、仏教学者の説明を通じて、仏教の宗教運動としての歴史を振り返り、哲学者の説明を通じて、仏教の思想的な特徴を理解できるというような形になっている。両者による対談は、仏教を宗教的・思想的に多面的に見るきっかけを与えてくれるであろう。

仏教学者は、それぞれのテーマに詳しい人が出てくる。増谷文雄が二回分を担当しているので、11人が参加しているわけだ。それに対して哲学研究者としては、梅原と上山春平が参加している。二人だけなのは、日本の哲学が西洋哲学一辺倒で、仏教を相手にしていないからだろう。その梅原と上山も、学問の基本は西洋哲学である。そのかれらが仏教に傾倒したのは、梅原の言葉によれば、西洋思想に限界を感じたからだ。いま人類が直面している危機に、西洋思想は対処できない。危機とは核時代における、人類絶滅の可能性が強まっていることをさす。そういう時代に、西洋思想を以てしては、戦争を回避し、平和を貫徹することはできない。人類は根本的に考えを改めなければならない。そういう課題に仏教は答えることができる。そんな確信が梅原らにはあって、とりあえずは同胞たる日本人に向って仏教の思想的な意義を説いて見る気になったもののようである。

上に「梅原らしい」といい、また梅原の西洋思想への懐疑について言及した。梅原は、小生も読んだことがあるが、かなり独断的なところがある。事象について実証的に考察するという姿勢は弱く、自分が思いついた見解をもとにして、演繹的に説明するという態度が強く見られる。その見解に実証的な根拠があればよいのだが、それがほとんどなく、単なる思い付きの域を脱していないので、独りよがりの推断に聞こえるのである。だがその推断には、独特のヒラメキがあり、参考になるものがないとは言えない。だいたい日本の思想家には、そういうタイプが多いのである。本居宣長はその典型だし、近代では折口信夫もそうだった。かれらは、事象をうまく説明できれば、よく出来た仮説だと考え、その仮説に実証的な根拠を求めることはしないのである。

梅原に比べれば、上山には多少実証的なところがあるようだ。小生がこのシリーズで最初に読んだのは、第四巻の「認識と超越」だが、これは上山が担当していた。この巻のテーマは「唯識」派の思想で、それを小生が選んだのは、それなりのわけがあった。小生の仏教への取り組みは鈴木大拙に影響されてのことだった。大拙の仏教理解は、「大乗仏教概論」に述べられている。それは「大乗起信論」を踏まえて書かれているものだが、その大乗起信論は唯識派の強い影響が指摘される。そんなことから唯識派をもっと知りたくなって、先の本を読んだわけだ。読んで見るとなかなか腑に落ちるところがあり、仏教をもっと知りたいという気持になった。そういう気持になったについては、上山の文章も大いに働いていると思うので、もしも梅原の文章から読み始めていたら、そんなことにはならなかったかもしれない。

ともあれ、このシリーズはなかなかよく出来ており、仏教を体系的に学ぶにはもってこいといえる。それだからこそ刊行後半世紀にわたって根強い需要があったのだと思う。以下そのシリーズ全12巻について、順次読み解いていきたいと思う。






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