サンフランシスコ平和条約と中国の社会主義路線:近現代の日中関係

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アメリカはじめ連合国と日本との間の戦争を終了させ、日本の独立を回復させるための講和条約の締結を目的として1951年にサンフランシスコで会議が催された。その結果1951年9月に講和条約が締結され、翌52年4月に発効した。それによって日本は主権を取り戻した。しかしこの条約には、連合国の重要なメンバーだったソ連と中国は加わらなかった。冷戦が深刻化していたし、その爆発形態としての朝鮮戦争が進行中だったからだ。

ソ連と中国を除外した講和は、日本国内では単独講和と呼ばれた。それに対して、ソ連と中国を含めた全面講和を求める声も大きかったが、冷戦の論理に押し切られた。アメリカは日本と単独講和をすることで、日本を西側に囲い込み、対ソ連・中国の前進基地としての役割を持たせようと考えたのである。

サンフランシスコ平和条約と抱き合わせで、日米安保条約が結ばれた。これは、日本の独立後も日本国内にアメリカの基地を存続させ、自由に使用できるとするもので、きわめて片務性の高いものであり、事実上アメリカによる日本の占領状態を継続させるものだった。アメリカとしては、朝鮮戦争の最中でもあり、日本国内に基地を置くことには重大な利害があった。この条約締結にあたっては、首相吉田茂はなるべく日本側の自主性を担保することをめざしたが、結果として一方的な基地提供条約になってしまった。歴史学者の豊下楢彦は、その背後に昭和天皇の影を認めている。昭和天皇は、国内の共産主義勢力を牽制するために、在日米軍の存続を望んだというのである。

連合国のうち中国との関係においては、サンフランシスコ条約と同時に日華平和条約が発効した。これにはアメリカの強い意向があった。国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、アメリカの意向を代表して、日本に独立を認める代わりに、日本が台湾の国民政府だけを中国全体を代表する政府と認め、その国民政府との間に講和条約を結ぶべきと主張した。日本はそれに従順したわけだが、大陸の人民民主主義共和国政府を完全に無視するわけにもいかなかった。そこで、条約適用の範囲を、「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」に限定することで、つじつまをあわせた。いずれにしても日本政府は、大陸の共和国政府を当面無視する形で戦後の国際関係に臨んだわけである。

以上の諸条約によって成立した体制を、サンフランシスコ体制と呼ぶ。簡単に言えば、冷戦を背景にして、日本が西側の一員に組み込まれ、対ソ連・中国においては、対立的な行動をとるというものである。

一方、中国大陸の政府は、朝鮮戦争に巻き込まれたことで、国力を消耗した。アメリカと直接対立の状態にあったわけで、そのアメリカとの関係を重視した日本を苦々しく思ったものの、外交上できることは殆どない状態だった。1953年に朝鮮戦争の休戦が実現し、戦争状態が解消されると、さっそく国土建設の課題に直面した。その課題に、共産党が中心となった共和国政府は、社会主義路線によって応えようとした。

1949年10月に成立した共和国政府は、毛沢東らの共産党勢力が中心になっていたが、かならずしも共産党政権というわけではなかった。共産党は、共産主義を前面に押し出さず、幅広い民主主義勢力が終結して、いわば統一戦線のような形で国を導いていく路線をとっていた。しかし朝鮮戦争に参戦し、アメリカと直接対立することを通じて、アメリカとの国力の差を思い知らされた。そこで手っ取り早く国力を増大させることを目的として、社会主義路線の徹底を選んだ。1953年に始まる第一次五ヵ年計画は、中国経済の社会主義化を象徴するもので、重化学工業に重点をおいたその政策は、ソ連の重化学工業化路線を参考にしたものだった。

このように日本が西側の一員に組み込まれる一方で、中国が国内経済基盤の拡大に注力し、外交に勢力を避けないような状態がしばらく続くことになる。それは、1972年の日中接近まで続くわけで、この期間の日中関係は非常に狭いものであった。かといって、完全に絶縁したわけではない。吉田茂のあとに首相となった鳩山一郎は、大陸中国との関係改善に関心を示したし、鳩山の後任石橋湛山も対中関係の改善に意欲を示した。そのほか、宇都宮徳馬をはじめとした親中派議員が中国との窓口になって、関係改善の糸口になろうとしていた。だが、大きな目で見れば、この時期の日中関係はきわめて冷え切っていたといえよう。特に1957年に岸信介が首相になったときには、大陸側は、A級戦犯が首相になることは認められないと強く反発し、日中間の関係は一層冷え込んだ。

岸の登場で日本が右傾化するのとは逆に中国は左傾化していった。第一次五カ年計画で工業分野の社会主義化が進むのと平行して、農業分野では集団化が進められた。また、思想統制も進んだ。共産党は1956年に百家争鳴運動を呼びかけ、国民が自由に意見を述べ合うことを奨励したが、それに応じて正直に意見を述べた者を、反革命と言って糾弾し、厳しい弾圧を加えた。言ってみればだまし討ちのようなものである。そんなこともあって、国民の間には「物言えば唇寒し」といった雰囲気が醸成され、体制の抑圧感が高まった。

一方、日本の岸政権も国民に対する抑圧的な姿勢では負けていなかった。岸信介の願望は、憲法を改正して自主防衛の体制を整えることであったが、そのため異論に対しては強権的な姿勢で臨んだ。警察官の職務権限を拡大することを目的とした「警職法」をめぐる騒ぎはその象徴的な事例であった。国民はそうした岸の強権的な姿勢に反発し、全国的な規模で反対運動が盛り上がった。

岸は理念上では自主防衛をめざしたが、現実的には対米従属を固定化させた。1960年の新安保条約締結がその仕上げであって、この条約は日本の対米従属を将来に向って固定化させるものであった。内容的には、従来の条約による日本の対米基地提供義務に加えて、アメリカに日本防衛義務を負わせたものであったが、これは従来のように一方的・片務的な基地提供義務だけでは、安定した二国間関係が持続しないという判断に基づいていた。しかし条約の趣旨が、米国に日本の基地を自由に使わせることにあることは従来と異ならない。

日米安保については、新条約も含めて中国は強い反対はしなかった。中国が日本について危惧していることは、日本が再軍備して強大な軍事力を持つようになり、中国にとって脅威になる事態だった。日米安保は、日本をアメリカに従属させることによって、日本の自主防衛への意欲を弱める、と中国側は判断した。その判断に基づいて、日米安保が中国への脅威を弱めるという理由で、強く反対しなかったのである。





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